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大学受験日本史講師 石川晶康によるブログ

駅伝 飛脚 そして佐川急便 成田リムジン

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駅伝を何となく見ながら、いつも思い出すのは佐川急便の飛脚のマーク。現在も飛脚の絵をつかっているかどうかは知りませんが、10年以上前、中国のかなり奥地で飛脚マークを見たことを思い出します。たしか、佐川急便の古くなったトラックが大量に中国に送られていたらしく、蘭州から敦煌にバスで向っている途中の町で休憩している時、佐川急便のトラックが止まっていたのです。一緒に旅行中の大学生が、そのトラックに近寄って、飛脚のマークを触りにいった。「飛脚マーク」に触ると幸運が訪れるという、一種の縁起かつぎが流行っていたということでした。中国の田舎の町で見慣れた佐川急便にあっただけでなく、その飛脚マークにあわてて触りにいくのをみて驚いたことを必ず駅伝の時に思い出すのです。
ついでに、中国旅行で成田リムジンで長距離旅行となったことも思い出します。敦煌に行くことになっていたのですが、飛行機が飛べず、なんと、蘭州からバスで移動ということになりました。バスの運転手が水などを積み込んでいる、そのバスが成田リムジンでした。乗ったら、フロントガラスがひび割れている。そこを鉛で塞いでありました。そして、車中には座席ごとに「成田まで・・・・分」という焼けたシールが張ってある。「成田まで・・・」「成田まで・・・」「成田まで・・・」だらけの車中で、はるか彼方の敦煌へ。砂漠のなかを走るという、違和感というか、奇妙な感覚を今でも思い出すのです。
そんな旅行をいっしょに繰り返していた、河合塾出身の大学生たちの、近況を報せる写真付きの年賀状を見ながら、駅伝を見ていると、そんな過去がまたまた蘇ってくるのです。
 受験生の人は、五街道・宿駅制度。箱根だけでなく、新居・小仏・碓氷・木曽福島・栗橋などの関所をすぐに確認しましょう。もちろん、浮世絵もチェック! 

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1 月 3rd, 2012 at 12:33 pm

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サンタが帰ったら歳の神がやってくる

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「門松」は「歳(年)の神」を迎えるための「依り代」。新年を言祝ぐためにやって来る神様のための目印というのが民俗学的な解釈ですが、その飾り方は地域によって様々。別に松でなければならないわけではない。家の廻りに立てるところも、床の間あたりに飾る所もあるという話を、何かの本で読んだ記憶があります。要するに、いろいろな形の年の神の迎え方があった。牧田茂氏の民俗学入門書で始めて知ったという記憶があるのですが、なにしろ40年近く前のことで具体的には思い出せません。
しかし、改めて考えてみると、そのような様々な「門松」は現在はどうなっているのかが気になります。現在では、簡略化して、大きな紙に絵で描いたものもあるそうですが、江戸時代以来の様々な歳の神の迎え方はどれほど残っているのか。現在の民俗学研究ではそのようなところも研究課題になっているのでしょうか。
 
 

 

Written by Ishikawa Akiyasu

1 月 2nd, 2012 at 7:13 pm

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あけまして おめでとう 門松はたてましたか

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あけまして おめでとうございます
正月と言えば、門松。最近では簡略化したものが多くなっていますが。
ところで、なんで正月には門松を立てなければならないんだろうか。そこで、正誤問題。
[設問] なぜ、正月には門松を立てなければならないのか、次の①〜④を読み、下記の問いに答えなさい。
①みんなが立てているんだから(立てないと世間から仲間はずれになるから) 
②松はめでたい木だから(なんたっておめでたいときには松でしょう) 
③昔からそうだから(子供のころからそうだった) 
④伝統を守っていくのが正しい日本人だから(もちろん国旗も掲げなきゃ)
さて、①〜④のうち、誤りのあるものをすべて選びなさい。
いきなり、正月からセンター対策みたいですが、この問題には答えがありませんから、正解もありません。
そもそも、問題自体成り立ちません。「門松を立てなければならない」という問題の前提自体に根拠がありません。
そして、なぜ多くの家が門松を飾るのか? と設問を変えてもどれが正解かはわかりません。これが正しいと言えるものは客観的にありません。
門松を立てなければならないという法律もありませんし、イスラム教徒がイスラム教としての正月を迎えるのは自由です。また、キリスト教徒がクリスマスが終わったら門松を立てても構わないことになっています。また、「松」に限定される根拠がそもそもわからないわけですから、答えようもありません。
それでは、なぜ「門松」を立てるんでしょうか。そんなことを考えたのが「遠野物語」で有名な柳田国男などの民俗学者だったわけです。

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1 月 1st, 2012 at 2:25 pm

慶応大学・経済学部 2011

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慶応大学・経済学部の2011年度入試から論述問題を1問。大問2の(3)をとりあげてみましょう。
未見史料ですが「大君の都」(オールコック)から、金銀比価問題についての部分の訳が示されています。
「日本通貨の銀貨は金貨に対してほとんど五対一の比率にもならない」とあるので、金銀比価問題がテーマ。そのあと、ややこしい話が続きますが、そこは読み飛ばしても構わない。要するに、世界に比べて銀が高く、あるいは金が安いということを言っているらしいとわかればok。いやいや、丁寧に読むことはない。
設問を確かめておくと、「この史料が取り上げている事実」、すなわち金銀比価問題が日本に与えた「経済的影響とそれに対する幕府の対応について説明しなさい」とある。与えられた史料を丁寧に読解する必要はないということです。
時間との戦いでもある入試の本番では、「ていねいに読んではイケナイ」タイプの史料です。要するに、史料はなくとも、
「金銀比価問題が開港貿易に与えた影響と幕府の対応について説明せよ」という問題なのです。
そこで、本番で、注意しなければならないのは、与えられた字数です。50字でも60字でも、100字でも成り立つ問題ですから、与えられた字数によって「どこまで書くのかを決める」ことがすべてです。
特に、定番とも言えるこのような問題では、要求される字数制限には大きな差があるのです。
慶応は行数単位の指定ですから、ここは2行です。1行は35字前後と考えて、70字以内で書いてみて下さい。
(基本的な知識を確認しておきましょう)
金:銀 の比価は 世界1:15 日本1:5
世界に比べて、日本は銀が高い(金が安い)。同種同量交換により銀15を日本に持込めば金3となる。
結果として、日本には銀が流入し、金が流出する
幕府は小型・軽量の万延金を国際的な比価に近づけて大量発行した(金貨の額面を変えず金の含有量を減らした)。
物価が高騰した。(急激な通貨量の膨張によってインフレとなった)
 さて、これをどう70字でまとめるかです。

Written by Ishikawa Akiyasu

10 月 10th, 2011 at 12:14 am

問題演習の注意点

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この時期になると、志望校の過去問を解いてみようという受験生が増えてきます。当然、模擬試験などと違って、様々なタイプの問題を解くということになります。どうにもならない難問に出会うと、「絶望的」な気分になって、学習意欲も減退・・・・
しかし、時間は遠慮なく経っていく。
そこで、ブログをしばらく休業してしまいましたが、再開。問題演習についての注意点をできるだけ、具体的に説明したいと思います。まだ、志望校の過去問演習にとりかかっていないという人にも役立つように書いていきたいと思います。
最近の質問を題材にしたいと思います。
まずは、慶応大学の論述問題をとりあげる予定です。もし、受験予定という人がいたら、2011年分だけでも解いておいてください。

Written by Ishikawa Akiyasu

9 月 30th, 2011 at 11:25 pm

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豊臣秀吉の「糸印」

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もう30年以上携わっている古文書の調査、出版の仕事で、千葉に行ってきました。
重要文化財に指定されている古文書を相手に、種々の計画を練らなければならないということになって、久しぶりに平安・鎌倉から近世初頭にあっけての古文書を相手に楽しい時間を過ごしました。
所蔵者の方などに、現物を開きながら少し解説などをしたのですが、一般の人相手となると、やはり有名人のものがよかろうと思って、秀吉の朱印状の現物を選んでみました。小田原北条氏が滅亡し、伊達政宗も屈服して、いよいよ東北地方の支配体制を構築しようという段階、天正18(1590)年の秀吉の朱印状。関連する、「浅野弾正少弼(長吉・長政)・木村常陸介」の書状もあり、浅野長政は受験の日本史でも奥州検地の責任者として問われることがありますし、いわゆる「五奉行」の一人でおぼえているひともいるでしょう。秀吉の朱印は日本史を専攻した人にとってはお馴染みのもので、「糸印」と呼ばれるものです。織田信長の「天下布武」の印文は高校レベルの日本史でも学習しますが、秀吉が使ったこの糸印は授業でも紹介する機会はありません。現在では何らかの読み方が提唱されているかもしれませんが、私の知っている限りでは、どんな文字なのかまったく判別できないものです。生糸の取引などに使った割り印に似ていることから「糸印」と呼ばれていると習った記憶があるのですが、「天下布武」の印が余りにも有名なので、この判読不明の糸印は「謎」めいた感じがつきまといます。以前、京都の有名な神社で豊臣秀吉の朱印状が発見された時に、調査の一員であったので現物を手に取った経験があったので、今日は2度目。久しぶりに「糸印」に直接お目にかかったわけです。糸印そのものは、展覧会や博物館の展示などでは幾度も見ているので、お馴染みのものではあるのですが、やはり、現物を手に取った時の感覚は独特のものです。ありふれた表現ですが、「歴史に触れた」というところでしょうか。同様の経験は、他にもあるのですが、その感覚は「歴史」に関わる仕事には必須のものであることを再確認することとなりました。

Written by Ishikawa Akiyasu

7 月 18th, 2011 at 12:21 am

源信と源信

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「源信」とくれば『往生要集』ですが、アタマに左大臣がつくと「左大臣源信」で「みなもとのまこと」ということになります。そこで、「左大臣源信」と板書すると、「さだいじん・げんしん???」ということになる。
応天門の炎上事件で、最初、犯人だと告発された「源信」は「みなもとのまこと」。真犯人は左大臣源信を告発した大納言伴善男だということになったわけですが、藤原良房がこれを利用し、どさくさに正式に摂政の地位を確立したということになっています。ところが、受験生は「左大臣源・・」とくると、安和の変、左大臣源高明を排斥し、「以後、摂関が常置」という定番の事件を連想するのか、左大臣源信がしっくりこない。というか、はっきり言って、「源・・」が多すぎるので、「もうこれ以上いやだ」という気持ちになる。もっともなことです。源経基・満仲・頼光・頼信・頼義・義家・義親・為義・義朝、そしてやっと源頼朝。この清和源氏だけでいやになっているところへ、「源信」なのに「げんしん」じゃなくて「みなもとのまこと」だばんて。さてさて、なぜ、こんなに「源」だらけなのか。暇があったら、ちょっと調べてみて下さい。

花の雲 鐘は上野か 浅草か (芭蕉)

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花の雲 鐘は上野か 浅草か (芭蕉) 
久しぶりに浅草で仲間と会食。「浅草」とくると、ともあれ、反射的に「鐘は上野かう浅草か」という文句が浮かんできます。次に、職業柄、入試問題がらみで、歌舞伎の江戸三座の浅草移転(天保改革)、あるいは、大正・昭和の大衆文化で登場する「(浅草)六区」などを思い出す。さらに、徐々に記憶も蘇ってくる。関東大震災と「浅草十二階(凌雲閣)」の崩落。あるいは、学生時代に何度か通読した『吾妻鏡』を思い出します。治承4(1180)年、山木討ちの後、石橋山の合戦に敗れた頼朝は安房に逃れ、体制を立て直して鎌倉に入り、鶴岡八幡宮の造営に着手するのですが、その時、「浅草」の大工(宮大工)を招いたという記事が『吾妻鏡』にあった? もちろん、正確におぼえているわけではありませんが。「浅草」という地名は鎌倉初期にまで遡ることに気づく。
あたりを見回すと、新しい要素も目にとまる。今回だと完成に近づくスカイツリー。みなれたところでも新しい発見がある。浅草といえば、「雷門」ですが、雷門前で待ち合わせだったので、全員が揃うまで、巨大な提灯のあたりをウロウロしているうちに、門の裏側に二体の彫刻があることに気づきました。正面から、表側から見て左右に風神像・雷神像が立っているだけでなく、裏側にも、風神・雷神像と背中合わせに二体の彫刻が立っているのです。雷門の裏側には、本堂に向って二体の彫刻があったのです。気になったので帰宅してから確かめたら、天龍像・金龍像と呼ばれるもので、現在の雷門が松下幸之助らの寄進によって再建された際に作成されたものらしい。そして、天龍像は平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)・金龍像は菅原安男の作とのことでした。
 平櫛田中は教科書にも登場する近代彫刻の大物で、出身地の岡山県井原市の田中美術館には何度か行ったこともあります。山陽新幹線・福山駅前の「五浦釣人」や国立劇場の大劇場正面の「鏡獅子」などが代表作です。
 そこで、改めて田中の作品をチェックしたら、その中に「源頼朝公像」がありました。現物は見たことがないのですが、そこで、とりとめもない連想、断片がつながった!
 浅草(浅草寺)・雷門・源頼朝・鶴岡八幡宮・(浅草の宮大工)・雷門・平櫛田中、そして、また源頼朝(像)に戻るということになって、ちょっと嬉しくなったのです。
 ああ、やっぱり江戸・東京は武家の都なのだ・・・・。

 

火山爆発 新燃岳と姶良(アイラ)火山

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日本史の授業、参考書は「旧石器文化」から始まります。そこで実際の授業や参考書で触れることはほとんどないのですが、どうしても気になるのが姶良(アイラ)火山の爆発です。連日、新燃岳の噴火、降灰のニュースが流れるので、なおさら火山の爆発が思い出されてしまうのです。現地の方のご苦労を考えれば、古い時代の噴火を話題にするなど、顰蹙をかうでしょうが、やはり気になってしまう。今から、2万2000年から2万4000年ほど前、後期旧石器時代、現在の鹿児島湾の奥部で起った大爆発です。姶良カルデラから噴出された火山灰(AT火山灰=姶良丹沢火山灰)は九州どころか、青森県にまで達した。すなわち、その堆積層は日本列島のほとんどを覆っているわけです。地質学では、このような地層を「鍵層」、各地域の地質年代を決定するキーとなる地層として注目します。火山灰編年法の基準となる地層が鍵層です。それにしても、大規模な爆発などという言葉であらわせるようなものではない。
ところが、さらにやっかいな問題があります。近年、急速に発達した年代測定法の成果によれば、姶良(アイラ)火山の爆発は、もっと古く、2万9000年前になるというのです。どうやら、専門家の意見も完全に一致しているわけではないようです。年代測定法に限ったことではありませんが、さて、実際に、授業でこのあたりをどこまで話すべきか? 深入りせずに、どうこの辺りを説明するか。4月から、早速、悩みながら授業を始めなければならないことは間違いありません。
不勉強を反省するだけの話になってしまいそうなので、このあたりでやめておきますが、4月から日本史に取り組むことになる人は、教科書などの「年代測定法」には是非、注意して下さい。(年輪年代法などについては、このブログでも過去に触れています)

Written by Ishikawa Akiyasu

2 月 6th, 2011 at 11:28 pm

センター日本史B 年代配列は?

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センター試験についての、その2。年代配列問題。
年代配列問題はどうしても正答率が下がります。答えを見れば「その通り」。解説を読めば何ということもないが、実際にはなかなかやっかいです。そこで、本年の問題をちょっとチェックしておきましょう。
解答番号2は、Ⅰが「新皇」から平将門の乱で10世紀前半。Ⅱは平氏政権の全盛期だから12世紀後半。Ⅲは9世紀。そこで⑤が正解。ただし「公営田」が9世紀に大宰府が実施した直営方式であったことを忘れていると苦しい。
解答番号12は、短文Ⅰが少々やっかい。Ⅱは「僧兵」の「強訴」ですから院政期(平安末期)、Ⅲは「初期荘園」の「衰退」ですから9世紀。そこで、寄進地系荘園の成立して来るⅠを10~11世紀と考えればok。このあたり、経済史不得意という人にはつらいところかもしれません。
解答番号20はⅠの「フエートン号」事件の時期がわかっていればok。忘れていると苦しい。Ⅱは天保の「薪水給与令」だから1842年、Ⅲの「異国船打払い令」は1825年。いづれも19世紀前半なので、大雑把な時期では判定できません。Ⅲの後にⅡということはわかっても、フエートン号事件をどこの持っていけばいいのかで迷うこととなるわけです。
さて、このような場合どうすればいいのでしょうか? これから始まる私大入試でも同様の年代配列が出題される可能性はおおいにあるのですから、すぐに「列強の接近」から「開国」、そして幕末の政治過程について、しっかりと確認しておきましょう。

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