歴史と歴史小説
本郷和人氏の近著『武力による政治の誕生』の導入部に、現在の歴史学の課題と歴史ブームについてのコメントがありましたので、紹介(「」の部分が引用部分です)しておきます。
「日本史という学問がここ数年、若い方たちにまったく人気がない」。東大の院生に聞いたところだと、具体的には学部生で日本史を専攻しようとする学生が少ないそうです。それなのに、世間では一種の「歴史ブーム」が続いている。
「たしかに「歴女」とか、「坂本龍馬フアン」とか、ありがたいことに古い時代に関心を持つ人は増えている」。
「だが彼等・彼女らが愛好するものは、「史実に基づく歴史」とは接点をもたない、まるっきりのフイクションである」
要するに、歴史学とはなんの関係もない、作り話であり、そのお話が好きな人たちが「〜フアン」だということです。そこで、
「わたしたち日本史研究者は、まさに商売あがったりである」と、本郷氏は率直な表現で歴史ブームと歴史学の間に生じている懸隔、現状を嘆いておられるのです。さらに、
「温故知新なんて常日頃から言っているは、学問なんぞとは異なるスキルでもって出世したり成功して、司馬遼太郎や塩野七生を愛読しているおじさんばかりだ。昔はこうだった、なんて人生訓を語られても、若い人たちには小うるさいお説教にしか聞こえないだろう」さらに、「ホームドラマ化しないとNHK大河ドラマが成功しない」とも指摘しておられます。
若い人ならまだしも、やっかいなのは、司馬遼太郎を崇拝し、てっきりそれが「歴史」だと思って、あろうことか説教までしてしまうおじさん・おばさんが大量に発生していることなのです。まったく、真摯な、第一線のの研究者の苛立ちが伝わってくるではありませんか。歴史小説を楽しむことは、いい趣味でしょうが、小説やドラマと歴史との関係についてはわきまえておくべきでしょう。
ぜひ、『武力による政治の誕生』だけでなく、本郷氏の著作にまだ接していない方は、一読されたいと思います。
前回、『坂の上のクソ』などという、下品な表現で司馬作品について舌足らずなコメントを書いてしまったので、ここは、第一線の研究者の見解を引用させていただいて、昨今の「歴史ブーム」の害悪がどのようなものか、改めて考えてもらいたいと思います。
坂の上のクソ
司馬遼太郎の『坂の上の雲』をもじって、『坂の上のクソ(糞)』という小説を書いてみたいものだと常々思っています。残念ながら、文才が乏しく、実現するわけもないのですが。
司馬作品の愛読者が多いのは構いませんが、フアンのなかには、司馬作品を愛好するあまり、そこに描かれている世界、人物がそのまま「歴史」だと思い、あげくは、「歴史」について語り出す人まで現れるのです。彼等は、小説の世界を実際の「歴史」だと思い込む。これは坂本竜馬と幕末の日本、あるいは織田信長、豊臣秀吉なども同様です。
歴史小説フアンは、しばしば、小説が、歴史の真実を描いていると錯覚するらしい。しかも、そのタイプの歴史小説好きは人に迷惑をかける。煩わしい存在となるのです。「織田信長は・・・だ」「秀吉は・・・・だった」「明治の日本は・・・・なのだ」。まるで見てきたように語り出す人に出会うと気がめいってくる。
司馬遼太郎の描く、『坂上の雲』を小説として楽しむのは勝手ですが、その作品を歴史と思い込み、明治や日本の近代化について学習したと思い込むことだけはやめてほしい。人にむかって、「歴史」をかたったり、あげくは教訓を垂れるのだけはやめてほしいものです。
そこで、文才さえあれば、『坂の上のクソ』というタイトルで、司馬遼太郎とまったく違う視点から、明治時代を「暗く」「悲惨な時代」として描いてみたいものだと思うわけです。小説なら、何とでも書けますから。
司馬竜太郎氏が何に感動しようと自由ですし、文才があることは間違いないところでしょう。それとは別に、所詮、そこに描かれているのは「歴史」そのものではないというこだけは知っておいてほしい。偉そうなことを言うのは本意ではありませんが、「歴史小説」と「歴史」そのものとは無関係であることだけは是非認識してもらいたいものです。
だれか、本当に『坂の上のクソ』を書いてくれませんか。粗筋は用意しますから。
200歳の男性と偽籍
長崎県壱岐市には文化7(1810)年生まれ、ピッタリ200歳の男性が戸籍の上で生存しているというニュースが流れました。遂に、緒方洪庵やショパンと同い年の人物が登場(あるいは、戸籍をコンピューターに入力したときのミスかも?)。
ところで、昨日触れた「偽籍」ですが、受験生の方は教科書(山川p69)で確認しましたか?
周防国玖珂郡玖珂郷の908(延喜8)年の戸籍の写真版の説明に「この戸籍には戸内の女性の数が男性に比べて一方的に多くみられ、租税を逃れるために作為された記載であると思われる」とあります。また、脚註では902(延喜2)年の阿波国の戸籍について、「5戸435人の内訳は、男59人・女376人となっていて、調・庸を負担する男の数を少なくしようと作為したあとが明らかである」としています。戸籍にもとづいて班田収授を行い、戸籍にもとづいて計帳を作成して、租・調・庸などの税を徴収するという律令の土地・税制が10世紀初頭には崩壊していたということを示す例として紹介されているものです。中央政府が国民(公民)を掌握することができなくなってしまい、以後、「人」を単位とする税制は放棄され、「土地」に対する課税に転換していくわけです。
なぜ、作為がまかり通ったのか。なぜ、多くの国民(公民)、農民たちはウソの申告をためらわなかったのか。種々の要因があるでしょうが、基本的には、口分田は男子に2段、女子はその三分の二で1段120歩。ところが、土地にかかる租は軽微で、重い税はほとんどが成年男子(正丁)にかかる。そこで、生まれた男の子を女として申告して、口分田が三分の一削られても、ほとんど税はかからない女子のほうが有利。間違いなく、女にしておいたほうが経済的に有利ということです。
もう一点。班田収授法では、死者の口分田は収公されることになっていましたから、死んだことを報告しなければ、口分田はそのままその戸のものとして存続します。班田・収授は「戸」を単位に行われるので、戸を構成する女性は100歳であろうが200歳であろうが戸籍に載せておけばいい。要するに死亡届を出さなければ、いつまでも1段120歩分の土地は収公されず、そもそも税はほとんどかからない。
理由や目的は違うのですが、戸籍制度や税制という、中央集権的な体制の根幹となる制度を維持することは難しいものですね。事実、今回の高齢者探しの発端は、まさに年金などの不正受給だったのですから、そのあたりは、古代も現代も変わりはないもののようです。
最高齢者は152歳 戸籍と住民登録
大阪市には、戸籍上では120歳以上の高齢者が5125人が生存しており、最高齢者は1857(安政4)年生まれで、152歳の男性とのことです。住民登録はされていないので、実態はわからないわけですが、これからも同様の戸籍上の最高齢者は続々発見されるということになるのでしょう。この問題を、どう考えるかはさておいて、受験生とすれば、「安政元年」とか「文久元年」などの年号がニュースや新聞に登場するたびに、「あー、幕末だ、イヤだなあ」ということになってしまいますね。1853年、「いやでござんす(1853)ペリーさん」、ペリーの浦賀来航の1853年は「嘉永6年」。翌年、再来したペリーと幕府は日米和親条約を締結します。その1854年、いわゆる「開国」の年、改元されて「安政元年」となります。そこで、大阪に戸籍上は存在している152歳の最高齢が産まれた安政4(1857)年は西暦では1857年。ペリー来航から4年後ということになります。そして、翌安政5年(1858)年、井伊政権は日米修好通商条約を締結します。
ところで、戸籍といえば、受験生はまず、古代、律令制の戸籍を思い出すでしょう。そして、その戸籍制度の弛緩が、律令の土地制度、税制を変質させていったことも思い出します。特に、戸籍上は生存するが、住民登録は存在せず、その状態を行政が放置するという、今回の報道に接すると、何やら、古代の「偽籍」を思い出すでしょう。
10世紀初めの戸籍の例として、圧倒的に女性の比率の高い戸籍が紹介されています。行政の弛緩もあって、多くの人が産まれた子どもを女性として申告した結果としか考えられない戸籍がいくつか残っているわけです。受験生だったら、一応、「偽籍」が出題された時に備えておきましょう。
鞆の浦に行ってきました
瀬戸内海の要港、鞆の浦に行ってきました 江戸時代の港湾施設がそのまま残されていることで有名です。瀬戸内海航路は古代から中世、近世を通じて常に日本の経済の大動脈ですから、鞆の浦に関わりのある人物も古代から近世まで多士済々。大伴旅人から、近世の朝鮮通信使まで、皆、その景観の素晴しさを讃える作品を残しています。近くの海域で坂本龍馬たちの「いろは丸」が沈没したこともあって、例によって観光キャンペーンが目立っていたのがやや景観を損なっていたのは残念でしたが、雁木だけでなく、その町並みは本当に魅力的なものでした。対島の江戸時代の船泊や佐渡島小木港の町並みなどを思い出しながら、氷あずきを食べるという至福の一時を過ごせました。
そう言えば、台湾の基隆港、中国の大連港、旅順港などなど、もう一度行って見たい港がたくさんあることに気づきました。
日本史勉強法 ゲームとしての解法
難関私大対策のテキストに必出の、未見史料を大量に使用した問題で、やる気を失ったという受験生も多いでしょう。学力がそのまま得点につながらないとイヤになってしまいます。
そこで、設問を利用しつつ、与えられた史料から人名や地名を抜き出して、何に関する史料かを推定する作業をゲームと考えて、復習に役立てつつ、得点力を向上させましょう。携帯でゲームをやってる場合ではありません。
たとえば、次の語句から、どんな事件が思い浮かびますか?
「密告」・「左大臣正二位( ① )」・「左道を学ぶ」
「左大臣」が危険な学問(左道)を学んでいるという「密告」から始まったというわけなので、①の左大臣は長屋王。もし、この長屋王の変のきっかけについて知らなかったら、すぐに、おぼえればいいだけです。テキストなどに「左道」書き加えておけいい。
因に、この史料は『続日本紀』。もし、史料に出典が示されていれば、『続日本紀』だったら、時期はほぼ奈良時代だと推定できます。しかし、この長屋王の変に関する史料と長屋王家から大量に発見された木簡についての記事は、山川出版の『詳説 日本史B(改訂版)』の冒頭の「資料を読む」という導入部分に詳しく紹介されているものです。そこで、この史料は、未見史料というより、焦点となる史料です。
未見史料問題の演習の際には、このような焦点の史料に留意しなければならないわけです奈良時代なら、道鏡のときの「加墾禁止令」も奈良時代の焦点の史料ですから、一度は解いておきたいところでしょう。また、左大臣が絡む政変はその後も多いので、この再整理しておくのも有効な勉強方法です。
ゲームとしての入試問題
夏期講習で早慶大などの問題演習に取り組んでいる人は、正解を得るためにゲームのような感覚がひつようだということがわかってきたと思います。
一種の、連想ゲーム的な感覚がぜひ必要なのです。消去法で、知らないことでも正解は得られるという問題も多いのです。講習会が終わったら、もう一度、問題を解いてそのあたりの感覚を再確認してください。
具体的には次回以降、紹介します。
(お知らせ)
twitterのアカウントでログインすることで、ブログエントリーにコメントをすることができるようになりました。携帯電話からのコメントが、うまく受けられなくなってしまいましたが、悪しからず。できるだけ早く対処したいと思っています。
早慶大日本史の予習
予習にとりかかっている人は、つぎの点に注意してください。
①何も見ないでやってみる。わからないところは、いちいち調べたりしないで、飛ばしておけばok。
②忘れたところをチェック。テキストやノートを見てみる。該当箇所が見つかったら、その箇所を、後からわかるようにマークしておく。
③調べてもわからない問題にもう一度チャレンジ。そこだけを考えないで、問題文をもう一度読み直すこと。
④どうしてもわからない場合はあきらめる。もちろん、教科書の欄外の註やコラムから答えを探してもよい。
ここまでやっておいて、講習会に臨んでください。そこからが、本当の受験勉強です。
『教科書よりやさしい日本史』完成
『教科書よりやさしい日本史』(旺文社)が完成しました。見本刷りが今日届きました。書店に並ぶまであと少しです。たまたま、今日は河合塾の同僚で旺文社で本を出している先生たちと、旺文社の社会科担当の編集の皆さん、営業の方などとの会食の日でもありました。その時、ぜひ受験生だけでなく、一般の方にも読んでもらいたいものだという話になりました。西尾鉄也氏のイラストの素晴らしさが、小生の文字の説明部分とどのように連関するか? 正直なところ、発刊後、読者に聞いてみなければわかりません。新しい試みでもあり、期待と不安が交錯している情況です。なんとか、単なる受験用の参考書ではなく、日本史に興味はあるが高校では未習だった、あるいは、授業では興味も湧かず、ほとんどおぼえていないという社会人の方にも、高校レベルの日本史の基本を知ってもらいたいというのが、本書の一つの目標なのです。ただし、社会人をも対象にするからといって、ドラマとしての歴史、教訓としての歴史について興味を喚起するというものではありません。経済史や外交史、文化史なども含めた基本的な、必須の知識を紹介したものですから、大河ドラマ的な興味を満たすものではありません。「面白い話」や「蘊蓄」を期待される方には不満が生ずるかもしれません。しかし、荘園公領制を知らずに源義経などの英雄に興味をもっても、所詮は小説的なドラマの世界。太閤検地の内容や大名知行制を知らないで江戸時代に興味をもっても、せいぜい、根拠の無い懐古趣味に終わってしまうでしょう。もし、本書に興味持ってくださった方は、その点を理解していただきたいものです。歴史にドラマを求める前に、その舞台となった各時代の政治・制度、外交、経済などを理解すること。そのためには、部分的ではなく、古代から現代までの基本的な知識を、時間軸にそって整理することです。
相撲と興行 選挙とワールドカップ
現在の大相撲につながる、江戸時代の相撲について、教科書(山川・詳説日本史)の記述を紹介しておきましょう。江戸時代のコラムに、「娯楽の代表は歌舞伎と相撲であった」「相撲は近世前半には大名や旗本など武家だけが楽しむ娯楽であった」とあります。相撲、歌舞伎は現在につながる「娯楽」ですが、念のため、古代の宮中の儀式としての「相撲」が江戸時代に復活したものではないことは注意しておきましょう。歌舞伎は、そもそも近世に成立した芸能です。「大名」などの武家が楽しむというところはあまり知られていないでしょう。大名たちは、武士である家臣を抱えていたわけですが、茶人、学者、種々の芸能人をも競って抱えていきました。要するに、すぐれた芸能人や芸術家、武術の達人などを雇っていった。これは、室町時代にも盛んにおこなわれたことですが、大名たちは力自慢、格闘家を雇っていった。彼等を闘わせて楽しむだけでなく、強い相撲取りを抱えていることを自慢したかったのです。もちろん、今も昔も民衆の格闘技に対する興味は強いものです。民衆は「総合格闘技チャンピオンは誰だ?」といった関心からも、相撲の興行を待ち望んだ。幕府は治安上、風俗上からなるべくこれを抑え込もうとします。しかし、幕府としても、民衆に一定の娯楽を与えざるをえないということとなり、相撲の興行を認めるようになりました。
教科書に、「幕府は1744(延享元)年四季勧進相撲を公認した」とあります。格闘技としての相撲を生業とする「渡世集団」の興行を認めることとなったわけです。人気力士もあらわれ、「1791年(寛政3)年には、初の将軍上覧相撲が江戸城吹上庭で挙行され」るにいたった。
そして、この「将軍上覧」、すなわち将軍の相撲観戦が「相撲に格式と権威を与え、相撲は娯楽の花形となった」というのです。
ちなみに、天保の改革では風俗統制が徹底され、もう一つの娯楽の王様、歌舞伎の役者は町を歩く時にも「編笠をかぶらされ」、さらに興行場所も、江戸の中心部から強制移転させられています。これも、教科書に、「三座(歌舞伎)を場末の浅草に移転」が載っています。難関大で時折出題されるので受験生は「三座」も暗記するぐらいです。
さて、その後、幕府は倒壊。明治天皇を神とする維新政府が登場するという大変革が起ります。そして、その混乱の中から、相撲の興行が復活するのです。「渡世集団」は、今度は天皇陛下から優勝カップを賜るようになって、将軍の上覧ではなく「天覧相撲」でその権威を確保することとなったわけです。
今日では、なんとなく、相撲は「国技」だという主張も現れるようになったわけです。相撲のどこが「国技」なのか? いろいろな評価はあるでしょうが、一応、歴史的な経過を踏まえた上で議論するべきでしょう。伝統的な、形式、様式を遵守する芸能であることは異議のないところでしょうが、その「伝統」の由来、形成過程とスポーツとしての要素をどう見るかはなかなか微妙でしょう。
只今、民主党幹部がテレビで色々とコメントしている最中です。
どうやら、政治も選挙も、じつは「興行」だったりして。そして、あと何時間かで、本当の、世界的な興行が始まります。スペインかオランダか。
