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相撲と興行 選挙とワールドカップ
現在の大相撲につながる、江戸時代の相撲について、教科書(山川・詳説日本史)の記述を紹介しておきましょう。江戸時代のコラムに、「娯楽の代表は歌舞伎と相撲であった」「相撲は近世前半には大名や旗本など武家だけが楽しむ娯楽であった」とあります。相撲、歌舞伎は現在につながる「娯楽」ですが、念のため、古代の宮中の儀式としての「相撲」が江戸時代に復活したものではないことは注意しておきましょう。歌舞伎は、そもそも近世に成立した芸能です。「大名」などの武家が楽しむというところはあまり知られていないでしょう。大名たちは、武士である家臣を抱えていたわけですが、茶人、学者、種々の芸能人をも競って抱えていきました。要するに、すぐれた芸能人や芸術家、武術の達人などを雇っていった。これは、室町時代にも盛んにおこなわれたことですが、大名たちは力自慢、格闘家を雇っていった。彼等を闘わせて楽しむだけでなく、強い相撲取りを抱えていることを自慢したかったのです。もちろん、今も昔も民衆の格闘技に対する興味は強いものです。民衆は「総合格闘技チャンピオンは誰だ?」といった関心からも、相撲の興行を待ち望んだ。幕府は治安上、風俗上からなるべくこれを抑え込もうとします。しかし、幕府としても、民衆に一定の娯楽を与えざるをえないということとなり、相撲の興行を認めるようになりました。
教科書に、「幕府は1744(延享元)年四季勧進相撲を公認した」とあります。格闘技としての相撲を生業とする「渡世集団」の興行を認めることとなったわけです。人気力士もあらわれ、「1791年(寛政3)年には、初の将軍上覧相撲が江戸城吹上庭で挙行され」るにいたった。
そして、この「将軍上覧」、すなわち将軍の相撲観戦が「相撲に格式と権威を与え、相撲は娯楽の花形となった」というのです。
ちなみに、天保の改革では風俗統制が徹底され、もう一つの娯楽の王様、歌舞伎の役者は町を歩く時にも「編笠をかぶらされ」、さらに興行場所も、江戸の中心部から強制移転させられています。これも、教科書に、「三座(歌舞伎)を場末の浅草に移転」が載っています。難関大で時折出題されるので受験生は「三座」も暗記するぐらいです。
さて、その後、幕府は倒壊。明治天皇を神とする維新政府が登場するという大変革が起ります。そして、その混乱の中から、相撲の興行が復活するのです。「渡世集団」は、今度は天皇陛下から優勝カップを賜るようになって、将軍の上覧ではなく「天覧相撲」でその権威を確保することとなったわけです。
今日では、なんとなく、相撲は「国技」だという主張も現れるようになったわけです。相撲のどこが「国技」なのか? いろいろな評価はあるでしょうが、一応、歴史的な経過を踏まえた上で議論するべきでしょう。伝統的な、形式、様式を遵守する芸能であることは異議のないところでしょうが、その「伝統」の由来、形成過程とスポーツとしての要素をどう見るかはなかなか微妙でしょう。
只今、民主党幹部がテレビで色々とコメントしている最中です。
どうやら、政治も選挙も、じつは「興行」だったりして。そして、あと何時間かで、本当の、世界的な興行が始まります。スペインかオランダか。
普天間基地問題 鳩山・仲井真会談
鳩山首相と仲井真知事の会談が民放で中継されていました。会談の会場、知事室か応接室かは聞き漏らしましたが、大きな屏風が正面にありました。一読して、「万国津梁之鐘」の銘文でした。琉球王国の繁栄を象徴するこの大きな「鐘」を見たのは随分前でした。まだ、首里城の正殿が復活する前で、県立博物館に展示してあった時代でした。その時のサテライト講座のためのロケのVTRからとった写真は『実況中継』に入れてあります。(白いスーツを着た、かなり気持ちの悪い当時の自分が鐘の横に立っています)。
那覇の港が東南アジアから中国、朝鮮、日本までの広大な地域の交易の要にあった。すなわち、「万国」、世界の国々の港を結ぶ拠点として繁栄していた状況を謳ったものです。授業でも必ず説明するところなので、主要な部分を意訳すると、
琉球王国は南の海の中に湧き出た理想の国である。中国とは車の両輪のような関係、日本とは唇と歯のような関係にあり、那覇の港には中国・日本だけでなく朝鮮半島の宝物も集まってくる。世界の宝物はなんでもこの那覇の港に集まってくるのだ。
この銘文を思い出すたびに、15世紀前半(1429年)の琉球王国の成立とその繁栄。17世紀以降の薩摩藩による琉球王国の植民地化、そして、明治政府の「琉球処分」、そして、沖縄戦と続く悲劇的な歴史の展開を考えざるをえなくなります。沖縄が本土の武家政権、日本政府の支配を甘受せねばならなくなって400年余。かつて、「琉球の時代」と呼ばれる繁栄をもたらした「南海の勝地」という地理的な条件が、アメリカの海兵隊駐留のための不可欠の位置にあり、それが日本の安全保障にとっても不可欠だということになってしまう。まさに「要石」「キーストーン」であることが沖縄に戦争と平和の両面において、周辺諸国にとって無視できないものであり続けているわけです。その意味からも、普天間問題は、誰かが誰かを批判したり、一面から特定の案を主張できるような問題でもないということだけは、自明のことでしょう。
アルミ貨は叫ぶ 早くプロペラになりたい
日経BP社の依頼で日本史に興味をもったビジネスマンに勧める本をいくつか紹介しておきました。続いて、「今度は日本史に関わる名セリフを」という依頼が来ました。ビジネスマンが元気になるような名セリフを紹介したいということなのですが、「はい」と安請け合いしてから????。
ありふれた名セリフを適当にというのは趣味に合わず、かといって、これといった名言やセリフといってもイメージが湧かない。しかし、「できません ごめんなさい」と素直に断るのもイヤ。まあ、有名なところをいくつかあげておくのも手ですが、さすがに、龍馬ネタなどは避けたいし・・・・。と悩んでいるところです。
一番、いままでで印象に残っているのは、名言ではなく、名コピーですが、
「アルミ貨は叫ぶ 早くプロペラになりたい」
というのがあります。太平洋戦争末期の「欲しがりません 勝つまでは」と同趣旨の、国民に戦争協力を呼びかけるものです。「欲しがりません 勝までは」は余りにも露骨で「臥薪嘗胆」の類です。しかし、この「アルミ貨」は同類とはいえ、凄い。
太平洋戦争末期、あらゆる物資が不足する中で誕生した名コピーです。とことん行き詰ると、「アルミ貨」、今で言えば1円のアルミ貨が「叫ぶ」んです。アルミ貨が叫ぶ。「こんなことやってる場合じゃない」「プロペラになりたい」と。財布の中から出て、特攻機のプロペラになりたいというんでしょう。実は、政府は「陶貨」の発行まで考えていました。それなら「土」があればいいわけです。この陶貨は実際には使用に至る前に敗戦ということになってしまったらしいのですが、その試作品を以前買った記憶があります。探せば出てくるくるかもしれませんが。そう言えば、備前焼の手榴弾も話題になったこともありました。
しかし、コピーもここまで来ると鬼気迫るというか神業の域に達している・・・と勝手に思っているんですが、これを推薦するべきかどうか、かなり迷っているところです。
建国記念の日・建国記念日・紀元節
今日は「建国記念の日」。かつての祝日、「紀元節」が戦後、復活したものです。明治政府は神武天皇即位の日を2月11日とし、大日本帝国憲法の発布もこの日に行われた。もっとも、明治政府は、当初1月29日を即位の日としたのですが、1873年に、2月11日に変更したものです。もちろん、どちらにしても、中国から伝わった「辛酉革命」という考えかたを利用して、神武天皇の即位を紀元前660年とし、さらにこれを太陽暦に換算して、1月29日、さらに2月11日としたわけです。紀元前7世紀ですから、縄文時代。弥生時代をもっと遡らせるとしてもその前期です。国家や天皇どころか「大王」も誕生していない時期であることは間違いありませんから、「神話」上の話です。
何を根拠に「建国」の日とするかは、国によってそれぞれですから、神話のある国は、そこに根拠を求めてもいいわけですが、それを、日付まで決めて、歴史的事実のように扱うのは、そもそも無理でしょう。
戦後、「紀元節」は祝日から除外されますが、これを復活させようという動きは早くから現れてきます。自民党は度々復活のための法案を提出しますが、革新勢力の反対にあって、何度も廃案とされました。そして、最後に妥協的な案として「建国記念の日」が成立しました。「建国記念日」では直接、2月11日の「紀元節」そのものの復活であることが露になるので、単に、日本の建国を祝うという意味を込めて、「建国記念の日」と「の」を入れたそうです。議会における与野党対決の妥協を象徴する処理だったのです。そして、その後、審議会を設置し、その「建国記念の日」を「2月11日」とする答申にもとづいて、事実上、「紀元節」が復活したのです。「の」を入れるか入れないかの違いをちょっと思い出したのでメモしておきました。
日本語は難しい? 政治家は小賢しい? 国民は休日が増えれば嬉しい・・・といったところでしょうか。
東京FM「サントリーウエイテイングバーABANTI」
東京FMの番組(「サントリーウエイテイングバーABANTI」)用に、「幕末」についてのコメントを依頼されたので、先日、雑談形式のコメントの収録に行ってきました。その中から、5分ほどが土曜日(30日)午後5時から流れることになっています。インタビュー、バーの常連客の会話という形だそうで、どの部分が流れるかわかりませんが、入試に関わる部分がたぶん流れるでしょう。
「幕末」というと、多くの受験生は目前に迫った入試で「幕末がでたら・・・」
とイヤな気分になってしまうでしょう(もちろん、「幕末大好き」な人もいるでしょうが)。
そんな時は、ともかく年表を取り出して確認しておきましょう。複雑な政治過程をできるだけシンプルに整理しておくこと。放っておくと本当に来週の試験で出ることもありうるわけですか。
先ずは、ペリーの来航。「イヤでゴザンすペリーさん」=1853年から。これを迎えた幕府老中は「阿部正弘」で開国。ハリスに対応したのは「堀田正睦」。ところが、条約勅許に失敗。大老井伊直弼が強硬路線で日米修好通商条約、安政の大獄。桜田門外の変。1860年。この辺りまではだいじょうぶです。条約の内容を確認しておけばOK。ところが、続く安藤信正からゴチャゴチャしてくる。安藤信正らの公武合体運動、和宮降嫁まではいいのですが、1862(文久2)年、安藤が襲われた「坂下門外の変」以後が複雑。
そこで、1862(文久2)年をしっかり確認するのがポイントです。
坂下門外の変⇒島津久光の上洛・寺田屋事件⇒勅使大原重徳を擁して江戸に⇒幕府、文久の改革(将軍後見職・政事総裁職・京都守護職など)⇒帰途、生麦事件 ところが、この年、後半になると孝明天皇の朝廷は将軍に攘夷の決行を迫る。翌年には遂に、文久三年5月10日に攘夷決行ということになり、長州藩がこれを実行するわけですね。
思い出してきましたか? できれば、今すぐその後もチェックしましょう。
生麦事件⇒薩英戦争、長州藩の攘夷決行⇒四国(連合)艦隊下関砲撃
というところが、正に幕末の政治過程の焦点でしょう。
がんばってください。
センター試験日本史B 私大用・速報③
センター試験から私大日本史へ
設問22 ④ 本問はやや難。講武所は1856年に置かれた軍事教練所である。開成所については、幕府の洋学研究機関の流れの中で理解しておくこと。
蛮書和解御用→洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→開成学校→東京大学
1811 1855 1856 1862 1863 1868 1877
天文方に設けられた蛮書和解御用はペリー来航を機に拡大、充実され、文久の改革で洋書調所となり、翌年には開成所となる。
設問23 ② Ⅱは年次(1811年)まではおぼえていないだろう。
Ⅰ:「新井白石」から正徳の治、将軍で言えば→6家宣・7家継
Ⅲ:「漢訳洋書」の「輸入」の緩和→享保改革、将軍で言えば→8吉宗
そこで、将軍で言えば、6代・7代・8代ということになる。だから、
Ⅰ→Ⅲの順序は間違いないと考えられる。そこで、ⅡはⅠの前(Ⅱ→Ⅰ→Ⅲ)かⅢの後か(Ⅰ→Ⅲ→Ⅱ)の2択に絞ってよい。さらに、幕府が蘭学(洋学)に本格的に取り組むのが「正徳の治」以前、すなわち、5代綱吉やそれ以前とは考えにくいので、Ⅰ→Ⅲ→Ⅱ(蛮書和解御用は9代以降で最も新しい)と推定すればよい。
私大受験者は、この際、上記の幕府の洋学研究機関の推移を確認するだけでなく、1811年という年次も記憶しておくとよい。すなわち、1811年はゴロウニン事件が起った年として記憶しているだろうから、あわせて、蛮書和解御用もおぼえておこう。将軍は、もちろん11代徳川家斉。
設問30 ③ うっかりミスで④を選んだという人がいるかもしれない。「第1次大隈内閣」だから③。第二次大隈内閣なら④。
念のため、近衛内閣の「第1次」と「第2次」「第3次」の区別は絶対に間違えてはいけない。もう一度、伊藤・山県・松方・桂・西園寺・山本などについても年表を眺めて確認しておこう。
設問35 ⑤ 高度経済成長は頻出テーマであるが、本問はセンター試験としてはやや難度が高い。
Ⅰ→「東海道新幹線」の開業は、1964年10月1日の「東京オリンピック」の開会の直前10月1日。そして、東京オリンピックが終わって池田勇人内閣は総辞職。佐藤栄作内閣が発足する。
Ⅱ→「列島改造」とくれば田中角栄内閣(1972.7〜1974.12)。
Ⅲ→「テレビ放送」の開始は1953年。私大なら年次もおぼえておきたいところ。サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が独立を回復したのは1952年。その翌年にテレビ放送が開始されたのである。内閣で言えば、もちろん吉田茂内閣。
そこで、Ⅲの年次に自信がなければ、Ⅰ→Ⅱは間違いないから①②⑤の3択とせざるを得ない。もっとも、電気洗濯機・電機冷蔵庫・(白黒)テレビの「三種の神器」が広く一般家庭に普及する「家庭電化ブーム」は1950年代後半以降のことであるから、テレビ放送の開始は50年代前半には始まっていたと考えて、
⑤のⅢ→Ⅰ→Ⅱとしたい。
設問36 「河上肇」が誤り。正しくは柳田国男(折口信夫)。単純な正誤問題だが、大正〜昭和の文化史分野は弱点となりやすいテーマなので注意しておこう。「河上肇」は『貧乏物語』、マルクス主義経済学だから③が×で正解でもよいが、私大入試にも備えてこのあたりをしっかり復習しておくこと。
東大寺の建築といえば、大仏殿、南大門、それとも法華堂
文化史の復習は進んでいますか。ただただ暗記という勉強方法は退屈。そこで、教科書の写真版や図録で建築・絵画・彫刻などを確認すること。
さて、東大寺の建築を3点。文化史でどの時代に属すでしょう。
東大寺に現存する天平文化の建築物と言えば法華堂。屋根を見れば、左と右が明らかに違う。向って左が天平期の建築で、「不空羂索観音像」「日光・月光菩薩像」などが納められている正堂。右は、鎌倉時代に付け加えられた礼堂。
南大門は鎌倉建築の代表。大胆、豪放な「大仏様」。関連する人物は重源(俊乗坊)・陳和卿。両側には金剛力士像。
1180(治承4) 平重衡の南都焼討ちで東大寺の大部分は焼失。
大仏殿は江戸時代の建築物、元禄文化で出てくる。1567(永禄10)年の松永久秀と三好三人衆との戦闘で再び焼失。
元禄年中に公慶上人の勧進により大仏・大仏殿が再建されました。



