Archive for the ‘日本史用語解説’ Category
200歳の男性と偽籍
長崎県壱岐市には文化7(1810)年生まれ、ピッタリ200歳の男性が戸籍の上で生存しているというニュースが流れました。遂に、緒方洪庵やショパンと同い年の人物が登場(あるいは、戸籍をコンピューターに入力したときのミスかも?)。
ところで、昨日触れた「偽籍」ですが、受験生の方は教科書(山川p69)で確認しましたか?
周防国玖珂郡玖珂郷の908(延喜8)年の戸籍の写真版の説明に「この戸籍には戸内の女性の数が男性に比べて一方的に多くみられ、租税を逃れるために作為された記載であると思われる」とあります。また、脚註では902(延喜2)年の阿波国の戸籍について、「5戸435人の内訳は、男59人・女376人となっていて、調・庸を負担する男の数を少なくしようと作為したあとが明らかである」としています。戸籍にもとづいて班田収授を行い、戸籍にもとづいて計帳を作成して、租・調・庸などの税を徴収するという律令の土地・税制が10世紀初頭には崩壊していたということを示す例として紹介されているものです。中央政府が国民(公民)を掌握することができなくなってしまい、以後、「人」を単位とする税制は放棄され、「土地」に対する課税に転換していくわけです。
なぜ、作為がまかり通ったのか。なぜ、多くの国民(公民)、農民たちはウソの申告をためらわなかったのか。種々の要因があるでしょうが、基本的には、口分田は男子に2段、女子はその三分の二で1段120歩。ところが、土地にかかる租は軽微で、重い税はほとんどが成年男子(正丁)にかかる。そこで、生まれた男の子を女として申告して、口分田が三分の一削られても、ほとんど税はかからない女子のほうが有利。間違いなく、女にしておいたほうが経済的に有利ということです。
もう一点。班田収授法では、死者の口分田は収公されることになっていましたから、死んだことを報告しなければ、口分田はそのままその戸のものとして存続します。班田・収授は「戸」を単位に行われるので、戸を構成する女性は100歳であろうが200歳であろうが戸籍に載せておけばいい。要するに死亡届を出さなければ、いつまでも1段120歩分の土地は収公されず、そもそも税はほとんどかからない。
理由や目的は違うのですが、戸籍制度や税制という、中央集権的な体制の根幹となる制度を維持することは難しいものですね。事実、今回の高齢者探しの発端は、まさに年金などの不正受給だったのですから、そのあたりは、古代も現代も変わりはないもののようです。
相撲と七夕
昨日は雨の七夕でしたね。トップ・ニュースはNHKの大相撲中継の中止決定。「品格」がどうのこうので朝青龍が問題視され、今度は賭博で大関や親方が処分とのことです。暴力団がらみではNHKも中継を断念せざるをえなかったんでしょうか。
ところで、古代の朝廷での儀式の代表的なものの一つに「相撲節(すまいのせち)」があったことはよく知られているところでしょうか。全国から集められた力自慢、今で言えば格闘家に技を競わせ、天皇や貴族たちがこれを鑑賞したのが始まりだとされています。『続日本紀』によれば、聖武天皇が諸国から「相撲人」を集め、宮中の庭でその技を競わせたとあるのです。そして、それは7月7日の七夕の日の「詩宴」の際に行なわれたものでした。要するに、相撲を観ながらの酒宴が催されたというわけです。その後、9世紀には式日は7月7日から16日へ、さらに25日、月末と変更され、場所も変わっていきますが、12世紀後半、1174年を最後に廃絶してしまったとされています。
それにしても、NHKも相撲中継の中止決定を、よりにもよって七夕の日、相撲節の式日の7月7日に発表するとは・・・。もちろん、そんなことは考えもしなかったんでしょうが。
ちなみに、教科書に出てくる相撲の話は改めて、次回ということにしておきます。受験生の人は、教科書に載っている「相撲」をチェックしておいてください。
攘夷決行
孝明天皇の攘夷決行要求に困り果てた幕府が、「攘夷決行」を約束した期日は、文久3(1863)年5月10日。普天間基地の移転問題の解決を、鳩山首相が5月末、今月末としたのと同じ、追いつめられて約束してしまったのと同じような情況でしょう。文久2(1862)年の島津久光の上洛、寺田屋事件、そして勅使大原重徳を擁しての江戸下向と、幕府の文久改革、生麦事件。ところが、同年後半になると、朝廷は一挙に攘夷論に傾き、長州藩と三条実美らの急進派の攻勢にさらされた幕府はついに文久3年5月10日の攘夷決行を朝廷に約束したわけです。長井雅楽の『航海遠略策』などをもとに、開国論をとっていた長州藩が攘夷論に転換していたこと。幕府側の主導権を将軍後見職一橋慶喜・政事総裁職松平慶永・京都守護職松平容保等が握る。まことに、受験生泣かせの政治情況の激変、情勢の流動化が著しい時期です。生麦事件の報復として、イギリス艦隊が鹿児島湾にあらわれ、長州藩を屈服させた薩英戦争も起る。
大河ドラマは、ドラマなので坂本竜馬をヒーローとして描くのが目的ですから、そんな複雑な動きにかかわっているわけにはいかないことは理解できます。しかし、教科書には吉田東洋がチラっと出てくる程度。土佐勤王党などでてきません。もちろん、土佐藩の政治抗争は大事なところでしょうが、この時期の主要なテーマではありません。もっと根本的なところはまったく省略され、坂本竜馬の素晴らしさを強調するところばかり。一通りの幕末史を理解していないと、ドラマを見れば見るほど、実際のところは何もわからないということになるでしょう。所詮はドラマ。歴史とは関係のないもの。主役をかっこよく描くだけに終始する。恋愛物、刑事物と同じ、時代物のドラマだと割り切っていればいいわけですが、なにか大河ドラマを見ていて歴史を学んだような気になることだけはやめてほしいものです。大河ドラマを見てもしこの時期の歴史を理解しようとしても、どんどん疑問が湧いてくるだけ。
さてさて、「歴女」「アシュラー」「大河ドラマ」などの歴史ブームはいったい何なのか? どのような現象なのかはわかりませんが、気になるところです。「みんな坂本竜馬になろう」などという、驚天動地の政治家が現れるにいたって、もはや開いた口がふさがらない今日この頃です。
アルミ貨は叫ぶ 早くプロペラになりたい
日経BP社の依頼で日本史に興味をもったビジネスマンに勧める本をいくつか紹介しておきました。続いて、「今度は日本史に関わる名セリフを」という依頼が来ました。ビジネスマンが元気になるような名セリフを紹介したいということなのですが、「はい」と安請け合いしてから????。
ありふれた名セリフを適当にというのは趣味に合わず、かといって、これといった名言やセリフといってもイメージが湧かない。しかし、「できません ごめんなさい」と素直に断るのもイヤ。まあ、有名なところをいくつかあげておくのも手ですが、さすがに、龍馬ネタなどは避けたいし・・・・。と悩んでいるところです。
一番、いままでで印象に残っているのは、名言ではなく、名コピーですが、
「アルミ貨は叫ぶ 早くプロペラになりたい」
というのがあります。太平洋戦争末期の「欲しがりません 勝つまでは」と同趣旨の、国民に戦争協力を呼びかけるものです。「欲しがりません 勝までは」は余りにも露骨で「臥薪嘗胆」の類です。しかし、この「アルミ貨」は同類とはいえ、凄い。
太平洋戦争末期、あらゆる物資が不足する中で誕生した名コピーです。とことん行き詰ると、「アルミ貨」、今で言えば1円のアルミ貨が「叫ぶ」んです。アルミ貨が叫ぶ。「こんなことやってる場合じゃない」「プロペラになりたい」と。財布の中から出て、特攻機のプロペラになりたいというんでしょう。実は、政府は「陶貨」の発行まで考えていました。それなら「土」があればいいわけです。この陶貨は実際には使用に至る前に敗戦ということになってしまったらしいのですが、その試作品を以前買った記憶があります。探せば出てくるくるかもしれませんが。そう言えば、備前焼の手榴弾も話題になったこともありました。
しかし、コピーもここまで来ると鬼気迫るというか神業の域に達している・・・と勝手に思っているんですが、これを推薦するべきかどうか、かなり迷っているところです。
国母について
國母君というスノボー選手の「服装がだらしない」、「自由でいいじゃないか」といった話題が盛り上がっているようです。
服装が自己を表現するものだとすれば、憲法の保証する「表現の自由」を尊重して、気に入らなくても認めるしかないのか?
「日本選手団」の「制服」を、「制服らしく着用するべきだ」ということになるのか。ちょうど、今、國母選手らの出る、ハーフパイプ競技の最中です。「国母」と表記するのは失礼なので、「國母」と表記しておきます。勝手に人の名前を別の字、略字にするのは失礼でしょうから。
ところで、「こくぼ」と聞くと、日本史的には「こくぼ」「こくも」から天皇の生母に対する呼び名を想起します。一般に、「国母」と言えば天皇の生母の称なのです。辞書によれば、879(元慶3)年、淳和太皇太后正子内親王を「国母」と呼んだのがその最初。「天子」を産んだ母、国の母親だということです。一条天皇生母の藤原詮子以後は、「国母」は出家後、女院号を受けるようになります。そのような存在である「国母」という言葉と、今回の問題が何やら皮肉なものに見えてくるのですが。ちなみに、幕末史で、薩摩藩の「国父」といえば島津久光でしたね。この場合は、藩主の父という意味ですが。
旧石器時代の人骨発見・沖縄県石垣市から
沖縄県の石垣市の「白保竿根田原洞穴遺跡」から「2万年前の旧石器人骨」が発見されたというニュースが流れました。以前、このブログで、高校日本史の教科書に紹介されている「炭素14年代」測定法と「年輪年代法」、あるいは、「AMS法」による補正について触れたことがありました。現在、旧石器時代の人骨としては、沖縄本島の「港川人」と「山下町洞人」、静岡県の「浜北人」が教科書にのっていますが、今回の人骨は、人骨そのものの年代測定に成功した結果として注目されるところです。かつては、牛川人、三ヶ日人など、多くの旧石器時代の人骨が紹介されていましたが、その多くが再検討の結果、「人骨」とは認められないものとされて教科書から消えていきました。でも今回は、確実な旧石器時代の人骨の例が加わったということになります。これが、来年以降の教科書に反映されるかどうかはわかりませんが、日本史の学習をこれから始めるという人は最初のところですから留意しておきましょう。ただし、今回も用いられた「AMS法」などの意味は理系の先生に質問して下さい。
センター試験日本史B 私大用・速報
センター試験から私大日本史へ その②です。
設問7④ イは「法興寺」か「法隆寺」か、迷った人もいたようである。安易に、聖徳太子(厩戸王)関係だから有名な「法隆寺」としてしまった人もいた。引用されている日本書紀の文章をよく読むと、ここは聖徳太子ではない。「蘇我大臣、亦本願の依に、飛鳥の地に イ を起つ」とあるから、イは法興寺である。
法興寺は飛鳥寺のこと(平城遷都後は元興寺に移る)。現在の奈良県明日香(あすか)村に、蘇我馬子ら蘇我氏によって建立された。鞍作鳥作の釈迦如来像(飛鳥大仏)が現存する(このブログでも紹介した)。もちろん、伽藍配置は飛鳥寺式伽藍配置。
法隆寺は現在の奈良県生駒郡斑鳩町に建立された。同じ奈良県でも「飛鳥」の地からはかなり離れている。もちろん、7世紀初めに聖徳太子が斑鳩宮の西方に建立した寺院(若草伽藍=四天王寺式伽藍配置)。私大受験者は、この際、「法隆寺再建非再建論争」と若草伽藍についてもチェックしておこう。
蘇我馬子 ⇒飛鳥に ⇒法興寺(飛鳥寺)
厩戸王(聖徳太子)⇒斑鳩の里に ⇒法隆寺
設問10 ③ これは、センター試験としては難問。「滝口の武士」は9世紀末、宇多天皇の時に内裏(清涼殿)の警護のために置かれたもの。検非違使は9世紀前半だから「滝口の武士をやめて、新たに検非違使」が誤り。また、検非違使は「平安宮の警護」ではなく、平安京内の警察・司法をその任務とした。「滝口」は、院の北面、西面などと一緒に出題されることもあるので、時期をしっかり確認しておきたい。
設問14 ② 「法然が活躍した」したのは鎌倉初期。九条兼実の求めによって『撰択本願念仏集』を著したことを思い出しておこう。
設問15 ② 東大寺南大門は、たまたま、ブログで東大寺南大門の写真を紹介していた。①室生寺金堂(弘仁・貞観文化 「山の斜面に」がキーワード)③平等院鳳凰堂(国風文化) ④円覚寺舎利殿(禅宗様)。教科書レベルの建築物はしっかりチェックしておくこと。近代の建造物など、どんな有名なものでも写真版利用問題は、見ておかなければ難問になってしまう。
設問21 ④ 甲=尾形光琳「燕子花図屏風」は基本。やっかいなのは、乙=人形浄瑠璃。これが読み取れるかどうか。教科書(山川)に載っている図版(『曽根崎心中』の口上番付)の一部であるから、知っていた人もいるだろうが、そうでなければ、左上の人形に気付かないと答えようがない。人形浄瑠璃とわかってd(竹本義太夫)ということになる。難関私大では、竹本義太夫だけでなく、人形遣いの「辰松八郎兵衛」もおぼえておこう。
2010年センター試験日本史B 私大用・速報
センター試験から私大日本史へ
センター試験日本史Bを受けた人は「お疲れさま」・・・といっている暇はありません。私大の日本史受験が迫っています。「センター試験は終わり」ではなく、せっかく受けたのだから、満点以外の人は、失点を吟味して、私大対策に役立てること。受けっぱなしではモッタイナイ。
そこで、もしも間違えていたら放置できないという問題をとりあげて、設問番号順に、何回かに分けて、コメントを加えていきます。できれば、手元に、センターの問題を用意して下さい。
設問1② Ⅰ・源頼信→Ⅲ・源頼義→Ⅱ・源義朝 で②。ここで迷った人は、
もう一度、清和源氏の系譜と政変・戦乱の順を対応させながら確認しておくことが必要。(a源経基・藤原純友の乱という組み合わせで確認しておくこと)
[清和源氏] 清和天皇—○—a経基—b満仲—c頼信— d頼義—e義家—f義親—g為義—h義朝—i頼朝
[政変・戦乱]a藤原純友の乱→b安和の変→c平忠常の乱→d.e前九年合戦→e後三年合戦→f源義親の乱(出雲の乱)→g.h保元の乱→i平治の乱
ここが、確実に出てくるようにしたら、一歩進めて、関連用語から戦乱の名称が導き出せるようにすること。
「摂津多田荘の経営」「左大臣源高明の排斥の発端」→a満仲
「上総・安房(房総)の国衙を制圧し」→c頼信
「陸奥の安倍氏の反乱を、出羽の豪族清原武則の協力を得て」→d.e父子
といった内容をもう一度チェックしておく。
設問6 「明治時代の思想界」、特に、1180年代後半からの「国家主義」的な思想は頻出のテーマながら、不得意な人が多いところです。
a 1887年 平民主義 →民友社 (徳富蘇峰) → 雑誌・新聞
b 1888年 国粋保存主義→政教社 (三宅雪嶺・志賀重昂) → 雑誌・新聞
c 1889年 国民主義 → (陸羯南) → 新聞
d 1895年 日本主義 → (高山樗牛) → 雑誌
a雑誌『国民之友』新聞『国民新聞』 b雑誌『日本人』 c新聞『日本』
入試ではa・bが頻出。ところが、本年のセンター試験ではc・dだけが取り上げられた! 私大受験者なら、確信をもって X正・Y正、で①。
さらに、一歩進めて。難関私大対策。政治史絡みでは、『国民新聞』がポーツマス条約を容認する立場をとったために「日比谷焼き打ち事件」で暴徒化した民衆の襲撃の対象となったこと。経済史関係からは雑誌『日本人』が「高島炭坑事件」をとりあげていること。テーマ史関係では、史学史で徳富蘇峰の『近世日本国民史』、三宅雪嶺の『同時代史』。文学史がらみなら、蘇峰の弟、徳富蘆花が『国民新聞』に連載した長編小説「不如帰(ほととぎす)」、高山樗牛なら小説『滝口入道』あたりも、チェックしておきたい(モチロン、必須の知識というわけではないので気楽に)。
(つづく)
ペリー・桜田門外の変、そして、コルトM1847
1860年の桜田門外の変。大老井伊直弼が水戸藩浪士らに襲われて落命。今の警視庁の目の前で首相が過激派に襲われたといった構図ですから、幕府の権威はガタ落ちです。ところで、先日、新聞に(朝日新聞1月16日朝刊)「幕末の和製銃」という記事がありました。その記事によれば、この複製の短銃(ピストル)は、ペリーが1854年、再来日した時、すなわち和親条約を締結した際に、将軍家や幕閣に贈った最新式のコルト社製の短銃が早速複製されたものだそうです。写真も載っていましたが、なかなか立派な、大きな拳銃です。
この複製の拳銃は太平洋戦争後、GHQによって接収されてアメリカへ。それを、1987年、日本の古式銃の研究家(沢田平氏)が入手したのだそうです。この立派な複製銃には、水戸の徳川斉昭が好きだったという桜の花の文様が装飾として施されており、そこから、この銃は水戸で作られ、それが「1960年に大老の井伊直弼を水戸藩の脱藩浪士らが暗殺した桜田門外の変で使われた可能性が高い」というのです。短銃の歴史については何もわからないので、この推定が当たっているかどうかはコメントできませんが、ちょっと調べたら、この短銃は6連発の「コルトM1847」、コルトの「ウオーカーモデル」と呼ばれるもので、桜田門外の変で使われたのもこれだったする説があるようです。
浪士たちが井伊直弼を襲撃するとき、短銃を撃って攻撃開始の合図としたことはわかっていますし、「井伊直弼の致命傷は短銃で撃たれた傷だった」とも言います。この複製銃が井伊直弼襲撃の際に使われたものだとすると、因縁めいた話ですね。水戸の徳川斉昭。「桜」の文様。「桜」田門外の変で「桜」つながりというわけです。
縄文時代から続く成人式・入試前日のチェックを忘れずに
今日は成人式。「通過儀礼」の代表的なものですね。「通過儀礼」とは人生の節目節目で行われる儀式です。その中でも、代表的なのが「成人」の仲間入りをする儀式です。縄文時代の「抜歯」はよく入試でも問われる通過儀礼です。健康な歯を無理やり抜いて、その痛みに耐えたら「今日から君も大人だ」というわけです。もっと手の込んだ、門歯をフオークのように加工する「叉状研歯」というのもあります。女性の「お歯黒」も歯に対する加工で、これも成人のしるしと考えられています。
教科書の、平安貴族の生活の部分(山川・詳説日本史Bならp68)にも「元服」と女子の「裳着」がゴジ(太字)でのっています。「元服」は「初冠」などとも言うことは古文で習ったでしょう。『伊勢物語』の最初が「初冠」ですね。「ういこうぶり」という読み方でまず戸惑ってしまう。
受験生なら、これだけでなく、平安貴族の服装、男子の「束帯」・「衣冠」と女性の「女房装束(十二単)」。あるいは、寝殿造とその構造など、受験前日に必ず目を通しておかねばならないところですよ。
ちなみに、若者が、耳たぶに穴をあけたり、中には、牛のように金属の輪を鼻につけたりしているのをみると感動しますね。身体の加工というのはなかなか興味深いテーマなので、ピアスを見ると「抜歯」を連想し、「ああ、通過儀礼なんだ」、「痛みに耐えたことを皆に見せたいんだ」と思います。本人にしてみれば「カッコいい」というだけですが、なぜ身体を加工して「カッコいいか」が興味深いところですね。また、魏志倭人伝(『三国志』魏書)に倭人が入れ墨、あるいは「文身」をしているという部分も思い出しますね。「弥生時代とかわらず入れ墨が好きなんだ」。そういえば、大津事件の被害者だったロシア皇太子ニコライも、日本に着いて、早速、入れ墨をしたという話を何かの本で読んだような気がします。確かめるのも面倒ですが、この身体加工は文化人類学などのテーマとしても気になるところです。


