Archive for 5 月, 2009
海賊問題の解決法と東大2次日本史
前回の「平安時代」の「海賊」に関する問題の解答例を示しておきます。もちろん、私案です。論述問題は、それこそ十人十色。納得のいかない人もいるでしょうが、とりあえずの解答例です。
(解答例)
律令税制の変質と陸路による輸送体系の衰退にともない、西日本の
公領・荘園から京に送られる官物、あるいは貿易品などは、大量輸
送に適した瀬戸内海水運によることとなった。そして、その実務は
在庁官人など現地の有力者が担ったが、彼らの多くは武士化し、海
賊化することも多く、中央政府がこれを鎮圧するのは困難だった。
(ポイント)
1 律令税制・交通体系の変質
2 受領と国衙の在庁官人
3 官物・年貢・私財、貿易品(日宋貿易)などの西日本から京への物資輸送
4 大量の輸送に適した瀬戸内海水運の発達
5 武士化した在庁官人などの存在
どうでしょうか。実際には、藤原純友の乱・平氏政権をヒントにすると書きやすいでしょう。もちろん、 10世紀の大転換・武士の台頭をベースに論を組み立てていくことです。
海賊問題と日本史学習法
久しぶりに、「日本史勉強法」。テーマは論述対策です。
最近、海賊問題について質問が何件かありました。もちろん、ソマリア沖に出没する海賊問題ではありません。毎年、この時期、平安時代の海賊についての東大の過去の入試問題を見た人から質問があるのです。
「平安時代になって瀬戸内海で海賊の動きが活発になった背景には、どのような事情があったと考えられるか。150字以内で述べよ。」という東大の過去問です。もちろん、ヒントとして『土佐日記』のなかで紀貫之が海賊を恐れていたこと。また、『今昔物語集』に見える、豊後国から、「重任」をこうために財物を船に乗せて上京する途中の僧侶が海賊に襲われた話が紹介されています。
さて、この設問に対して、最悪の解答は、「平安時代になると政府の地方統治力が衰えて、治安が乱れ、海賊が横行した」といった解答でしょう。「武士が台頭して、しばしば闘争を繰り返し、一部には海賊となるものもあらわれた」といった解答も出て来るかもしれません。ともかく、犯罪者が増えるということは「政府の治安維持能力が衰えたからだ」、という発想から答えをひねり出そうというわけです。それは、さすがにダメだろう。そこで、質問ということになるのでしょう。
それなりの解答を示すのもいいのですが、論述問題ですから、様々な解答が可能でしょう。また、答案の骨子を示してしまっては、「学習」の効果はなくなってしまいます。そこで、他の問題にも応用できるように、基本的な考え方を示しておくことにしています。
まず、大前提。
「物は水の上を、人は陸上を」という原則を思い出すこと。
大量の物資を陸送するのは、費用がかかりすぎて大変です。大都市の消費をまかなうための大量の物資は、水上交通によらなければならない。少なくとも、前近代社会では、物は「水の上」を運ばなければならない。川と海を使わなければ効率が悪すぎる。
次に、やや下品な、たとえ話。
「中年のオジさんと男子校の生徒でギュウギュウの電車には、ほとんど痴漢はあらわれない」「人通りのほとんどない道にスリ集団はあらわれない」。
「物がたくさんあるところに泥棒があらわれる」。物が集まるところ、物が多く行き交うところに泥棒はあらわれる。それが、平安時代は「瀬戸内海」だったと考えてみよう。瀬戸内海が西日本各地から京に向う流通ルートのメインになった。その物資を狙って「海賊」が横行したという筋で考えるということです。
次に、「奈良時代」はどうだったかと考えてみよう。「平安時代」になると「海賊」が瀬戸内海に出没するのはなぜか? なぜ「平安時代になると」なのか。別の問いに置き換えてみる。「奈良時代に瀬戸内海に海賊があまり現れなかったのはなぜか」を考えてみればよいということになります(そんな問題は出ないでしょうが)。奈良時代と比較する発想から答えは見えて来るでしょう。
このような作業が、論述問題に対する日本史勉強法の基本です。
東大受験生はぜひ考えてみて下さい。日本史が得意、高校レベルの日本史ならだいじょうぶという人も考えてみて下さい。実は、「なるほど」という解答をぜひ見たいのです。なかなか、模範的な解答例が確定しないのです。
新型インフルエンザに有効的なのはミソギと祓?
「豚インフルエンザ」改め、いつのまにか「新型インフルエンザ」。豚肉の売れ行きが悪くなったので、「豚」はやめて、「新型」に代えたのか? 真偽のほどはさておいて、いっそ、昔に戻して「新型流行性感冒」「新型流感」でもよかろうに・・・・。まあ、それはいいとして、マスコミの報道ぶりも過熱気味。それにつれて、テレビの報道に何やら違和感が生じてきました。
その方面の知識は無に等しいので、新型インフルエンザに対する警戒感を否定するつもりはありません。しかし、何だか、マスコミは、いわれなき恐怖感にとらわれている感じがする。あるいは、伝染病に対する恐怖感を煽っている。そんな意図はないにしても、そんな姿勢が垣間見える。コメンテーターと称する人が、「落ち着いて」「冷静に」「手洗い・うがい」と締めくくるたびに、「子ども扱いするんじゃない」「だれもパニックになんかなってないよ」と言いたくなる。おまけに、アナウンサーまでが「・・・に有効的な・・・」と口走ってしまう。「有効的」という日本語はスポーツ選手だけが使う業界用語だと思っていたのに、とうとう立派な日本語になったらしい。
という具合に、なんだか気持ちが風邪気味になってしまったのです。
勝手な思い込みと言われればそれまでですが。思い込みついでに、その恐怖感を「日本史」的に考えてみました。
日本人の「穢れ(ケガレ)」という感覚、観念の強さはよく知られているところです。基本的には「死」のケガレ。教科書では、古墳文化のあたりで、「禊(みそぎ)・祓(はらえ)」という語句が出てきます。「禊」は水を浴びて穢れを洗い流すこと。「祓」は罪や災いや穢れの除去を神に祈る行為です。神社で「お祓い」を受けたりすることは今でも行なわれています。穢れの観念は、平安貴族たちによってさらに拡大、深化されていくのです。
日本人ほど「風呂好き」な国民はいないそうです。毎日、風呂に入らないと気がすまない。一説によれば、それは「穢れ」を除去しなければならない、水で穢れを濯がなければならないという観念があるからではないか。理屈としてではなく、それこそ、歴史的にそのような感覚を身につけているというわけです。
伝染病と死。人と人が接触し、風とともに漂う「死の穢れ」が潜在的な恐怖としてあるのではないか。ふとそんな気がしたのです。
とりあえず、「うがい」「手洗い」と「お祓い」を励行しましょう。
天皇の支配する日本が登場
古代史の最初のヤマ場、7〜8世紀。「天皇」と「日本」がいよいよ登場します。
いつから「やまと」「倭」は「にっぽん」となったのか。「大王」はいつから「天皇」と呼ばれたのか。
「天皇は、神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀応神仁徳履中(じんむ・すいぜい・あんねい・いとく・こうしょう・こうあん・こうれい・こうげん・かいか・すじん・すいにん・けいこう・せいむ・ちゅうあい・おうじん・にんとく・りちゅう)・・・・・?」
日本史の勉強が歴代天皇の暗記から始まったのは戦前。神話にもとづく「国史」教育です。まさか、そんな人はいないでしょう。
そこで、「天皇」という君主号が何時始まったのか。推古天皇か、天武天皇か。種々議論されています。もっとも、5世紀の巨大古墳で、仁徳天皇陵、応神天皇陵といった言葉が出てくるので、「あれっ?」と思う人もいるでしょう。
「5世紀にも仁徳天皇、応神天皇とか出てきたはずなのに?」「天皇は5世紀からいるんじゃないの?」という疑問が出てもしょうがない。ここは、授業でしっかり説明しておくべきでしょう。
「仁徳」とか、「応神」といった呼び名は「漢風諡号(かんぷうしごう)」と呼ばれるものです。「漢風」、すなわち中国風の呼び名です。「諡号」というのは、貴人などに対して、その死後に贈られる呼び名のことです。そして、「神武」から「持統」天皇までの漢風諡号のほとんどは、8世紀後半に淡海三船が一括して決めたものです。そこで、「大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)」という名の大王に、死後、300年以上経ってから「仁徳」という中国風の名称をつけたわけです。
ちなみに、(実在を疑問視する見解もありますが)この仁徳天皇は5世紀前半頃の大王で、その陵墓とされる「仁徳天皇陵」、すなわち「大山古墳」は5世紀中葉の築造と推定されています。つまり、あの世界第1位の平面積を誇る前方後円墳に仁徳天皇が葬られている可能性はほとんどないそうです。
ところで、先週、ある校舎で「質問」を受けました。壬申の乱に敗れた天智天皇の子、「大友皇子」についての質問でした。大友皇子は壬申の乱に敗れ天皇に即位していないにもかかわらず「系図のところに「大友皇子(弘文)」とあって、天皇の即位の順番でも天智天皇の次となっていて、その次が天武天皇となっているのはなぜか?」といった主旨の質問でした。授業で、そこのところに触れなかったために、さっそく質問されてしまったのです。しかも、現在執筆中の問題集にとりあげた某難関私大の問題に、それが出ていたことを忘れていたのです。
そこで、質問に対する回答。大友皇子に対する諡号「弘文」は、明治3(1870)年に贈られたものです。672年の「壬申の乱」から千年以上後に大友皇子は漢風諡号を贈られたわけです。他にも、死後、即位はしなかった人物に諡号を贈った例はありますが、これは省略してもいいでしょう。
連休中の日本史勉強法は天皇と憲法の歴史に焦点をあてる
連休が、やっと?終わりました。なんで、そんなに、休みが続くのかもわからなくなってくる。しかも、例年どおり、河合塾は連休なしなので、いつが何の日だかわからなくなってくる・・・人も多いようです。
4月29日は「昭和の日」。これが一番最近できた祝日で、少し前までは「みどりの日」だった。要するに昭和天皇の誕生日。
明治に祝祭日が法で定められるようになって、明治天皇の誕生日は「天長節」と呼ばれ、11月3日(太陽暦)でした。ちなみに、皇后誕生日は「地久節」で、1931年には「母の日」とよばれることとなっています。
5月3日の「憲法記念日」は、もちろん日本国憲法の施行の記念日です。「施行」ですよ。制定だと半年前で11月3日。11月3日の天長節は、明治天皇がなくなると、「明治節」と名を代え、祝日として存続し、さらに、「文化の日」となります。ついでに、大日本帝国憲法は2月11日発布で「紀元節」。こちらは、現在、「建国記念日」・・・・・・ときりがない。そして、近代の天皇と憲法が絡み合っているわけです。
ところで、この連休中は、ほぼ「律令体制の成立」といったあたりが授業の範囲です。そこで、授業でも、君主号としての「天皇」や国号としての「日本」の成立、そして、「憲法十七条」などを喋っているわけです。
年配の方には違和感があるかもしれませんが、「聖徳太子」は、現行のメインの教科書では「厩戸王(聖徳太子)」となっています。
そこで、「厩戸王は馬小屋の前で産まれたというんで、「うまやどのおう」と呼ばれたらしい。キリスト、イエズス様も馬小屋で産まれた。世の東西を問わず、偉い人はみな「馬小屋」で産まれることとなっている。「豚」小屋の前だとインフルエンザ・・・・・・」と脱線しかかって、ブレーキをかけ、「聖徳太子は「聖」なる人。そこで、憲法十七条の「17」という数字も、「聖なる数字」とされたんだ。近代になっても、国の基本法を「憲法」と呼んだ」。
ここは大事なところなので、ちょっと声を小さめにしていきます。「ここが大事だ!」とやると、まず、聞いてはくれません。そこで、いきなり、黒板に、大きく、「17×3」と書く(細かいことですが、いきなり51と答えを書いてはイケナイ。一瞬、計算させる。この間が必要なんです)。そして、「鎌倉幕府の『御成敗式目』は、その倍数、17×3=51、51箇条に無理矢理まとめたという説がある。「建武式目」「禁中並公家諸法度」は17箇条・・・・・。」(ここは聞き取れないぐらい早くしゃべる。もちろん、そのあとユックリ繰り返す)
そして、憲法十七条の内容を説明していくわけです。
それにしても、ともかく一度、祝日にしたら、何とか名称を代えて祝日を減らさないのは、とりあえず結構なことです。
いっそのこと、神武天皇から125代ということになっているので、今上陛下までの誕生日を全部(南朝も入れればもっと増えます)休日にすれば・・・」、と、また脱線。松川事件ということになっていく。
それにしても、祝祭日だけで入試問題が3〜4題できそうです。いや、本気で調べていけば1冊本が書けそうですね(あるかもしれないが)。
