Archive for 6 月, 2009
千年前は、女性ばかりが活躍した時代でした
問題を出しておいて、解答例も示さないまま、忘れそうになっていました。
答えを考えた人に失礼なので、解答の骨子だけを示しておきます。もちろん、論述問題ですから、多様な答えがあるでしょう。参考までに示しておきます。念のために、問題をもう一度。
(問題)10世紀から11世紀にかけて、文学史上、後に古典とされる文学作品が多く現れるが、その書き手の多くが女性である。文学史上、古典とされる作品の書き手として、この時期にのみ、突出して女性の活躍が目立つのはなぜか。政治的・社会的な背景にも留意して、150字以内で説明しなさい。
(ポイント)
①なぜ、女性がこの時期、文学史上で活躍したのか。ということは、逆に言えば男子があまり活躍しないのはなぜかということです。
②政治的な背景・社会的な背景に留意する。この時期、いわゆる「摂関政治」の時期であることを忘れないこと。
(解答の骨子)
ⅰ 「平かな」が自由な表現を可能にした。ヤマト言葉(日本語)を表現できるようになった。漢字仮名混じりの、現在の表現形式が始まったということです。『源氏物語』を「万葉がな」や「漢文」で書くことは困難だったといった意味です。
ⅱ(政治的な背景)外戚関係が重視されたこの時期(摂関政治の時期)には貴族層はその女子(娘)の教育に力を注いだ。
ⅲ ⅱのために、有能な女房たちが高級貴族の女子に仕えることとなった。
要するに、摂関家などの娘の教育係、世話係として優秀な女房たちが集められたということです。
ⅳ (具体的には)摂関家などに奉仕する受領層(中流貴族)の娘たちが女房として集められた。
ⅴ 経済的・時間的な余裕を与えられた、経験豊かで、才能のある女房たちが、ⅰでみた自由な表現手段を得て、物語、随筆などを創出していった。
ざっと挙げてみると、こんなところでしょうか? 支配者層、男性の貴族たちは、まだまだ漢文の世界に生きていたわけです。平仮名が女性層にまずは広がっていったわけです。また、女房たちは、父の受領としての苦労も、民衆の世界の実情にも通じていたでしょう。そのような環境が、この時期にのみ、女性が文学の担い手、物語や随筆の書き手したのです。
日本脱出に失敗した将軍様
鎌倉オリエンテーション関連の話題の続編です。朝鮮半島の将軍様ではなくて、鎌倉時代の将軍様、3代将軍源実朝の逸話です。核とミサイルが好きな将軍様ではなくて、和歌でも有名な、『金槐和歌集』を遺した実朝の逸話かです。父頼朝の死後、梶原景時の乱、比企の乱、兄の源頼家の死。きっと文学青年にとっては堪えられない日々が続いたから。単なる思いつきか。本当のところはわかりませんが、和歌も詠めなくなってしまった、将軍実朝は中国への脱出を決意します。東大寺再建で腕を振るった陳和卿という宋の技術者を鎌倉に招き、宋に渡るための大船の建造を依頼したのです。陳和卿は「大仏様」と呼ばれる東大寺の南大門の建造で有名な人物です。寺院建築の専門家であることは確かですが、造船も得意だったかどうか。そのあたりは、かなり疑問です。今なら考えられない話でしょうが、ともかく実朝は本気で日本から脱出しようとして陳先生に大きな外洋船を造ってくれと頼んだ。そして、由比ガ浜で船が完成します。そして、3代将軍実朝は中国に・・・・となっていたら鎌倉幕府の歴史はどうなったかわかりません。実際には、進水式ができなかった、あるいは進水式に失敗して船は崩壊、渡宋計画は、文字通り、水泡に帰したのです。
現在の由比ガ浜に立っても、なかなか想像しにくい出来事です。「この辺りから実朝は中国に出発しようとしたんだ」と考えても、なかなか想像力が湧いてこない。いや、いや、この実朝の逸話だけではありません。鎌倉という町はなかなか過去に遡って想像力を働かせることが難しい町のようです。「このあたりに将軍の御所が」「このあたりで日蓮が辻説法を」などと知識ではわかっていても、その現場に立った時、「感慨」「追想」といった類の想いが一向に湧いてこないのです。その意味で、鎌倉は少々、不思議な町です。
河合塾・鎌倉オリエンテーションの最後のポイントは浄妙寺
河合塾の首都圏の生徒を対象とする「鎌倉オリエンテーション」が今年も実施されました。受験勉強も第1ラウンドが終了。ちょうど第2ラウンドに入って、鎌倉・室町時代を学習しているところです。円覚寺、建長寺などに日本史の教師が立っていて、問題を配り、最後に鶴岡八幡宮で結果発表という例年どおりの手順で、無事、終了しました。多くの職員の皆さんのおかげでもう10年近く続いているイベントです。今年は、例年より少し遅い日程だったので、アジサイの季節。明月院に多くの観光客が押し寄せて、北鎌倉から建長寺までは歩行者天国状態でした。最後は、鎌倉五山の第五位、浄妙寺がポイントでした。
受験生にとっての最大の悩みは単純暗記ですが、この「鎌倉五山」などはとりわけ面倒なものです。第1位、第2位の建長寺・円覚寺は入試でも頻出ですが、最後の浄妙寺はほとんど出題されない。しかし、まったく出ないわけではない。京都五山との区別がついているかどうかを試す、正誤問題などでは注意しておきたいところです。そこで、寿福寺・浄智寺・浄妙寺までしっかりおぼえておこうということで、最後は浄妙寺にしているのです。
ちなみに、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺は、北条時頼・北条時宗・北条政子と源頼家母子・北条師時と北条氏が高僧を招いて建立していったものですが、最後の浄妙寺は鎌倉初期に足利義兼が建立した寺院で、14世紀後半に鎌倉五山の第五位とされた寺院です。鎌倉五山が全部、北条氏によって建立されたものというわけではないのです。浄妙寺だけは足利氏。甲斐の武田氏とならんで足利氏は数少ない、代表的な「源」姓の有力御家人です。言うまでもなく、鎌倉幕府は源氏の源頼朝が樹立したもの。源氏の幕府です。ところが、上総介氏、千葉氏、和田氏、三浦氏、そして北条氏等、鎌倉幕府の有力御家人の多くは桓武平氏だったのです。そこで、教科書に出て来る有力御家人はほとんどが桓武平氏、「平」姓の御家人。足利氏は、最後の最後に足利高(尊)氏が登場するということになるわけです。この間、北条氏と足利氏は姻戚関係を築いているのですが、そこは教科書には出てこない。そこで、五山の第五位の浄妙寺(最初は「極楽寺」)までおぼえたら、ついでに、足利義兼にもちょっと注意しておきましょう。足利氏は鎌倉初期から、北条氏と姻戚関係を結び、有力御家人の反乱などでも北条氏側の立場をとっていたので、教科書には出てこない。ところが、最後の最後に登場して、北条氏を打倒してしまうわけです。
単純な暗記は、割り切って、無視。建長・円覚・寿福寺でやめておくか、やはり、暗記してしまうか。迷っている位ならおぼえてしまえばいいのですが、おぼえたら、せっかくなので、なんらかの関連事項をあわせて学習しておくことを心がけましょう。
上智大学2009年入試問題と武蔵国について
語学春秋社のホームページのe-portのコーナーでの入試問題の紹介を再開しました。本年度、最初は上智大学(神・経営)第1問です。受験生の方は是非、利用して下さい(もちろん無料です)。問題文を示し、音声で解説しています。
さて、その問題の中で、「武蔵国」に関する問題があります。畿内(五畿)・七道の「七道」とは、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道ですが、これらは道であるとともに地方行政区画でもありました。畿内に属するのは、大和・山城(山背)・摂津・河内・和泉。その他の国々は、七道の何れかに属することとされました。筑前、肥後、薩摩などの九州の国々は西海道諸国。近江国は東山道諸国、といった区分です。
そして、上智大の今年の問題では、「武蔵国」を東海道諸国とするか、東山道諸国とするか判定しなければならない問題が出されたのです。さて、武蔵国は東山道、東海道のどちらに属すのか?
「教科書を中心に」「教科書に〜とある」「教科書さえしっかりやれば」といった言葉は、受験指導で繰り返し出てきます(小生も例外というわけではありません)。
そこで、教科書の裏表紙の旧国名図(旧国名による日本全図)を見ると、武蔵国は伊豆・相模・上総・下総・安房などのグループ、東海道諸国の中に入ってます。一般にも、「関東」というと相模・武蔵・上総・下総などをイメージします。「関八州」の関東8カ国です。ところが、この問題は、「701年、大宝律令の制定を受け、全国は五畿七道に行政区分された」とし、①は東山道に武蔵・上野・下野、東海道に相模・上総・下総・常陸、③は東山道に上野・下野、東海道に相模・武蔵・上総・下総・常陸が属すとして、どちらが正解かということになっているのです。②④⑤は検討の余地なく誤りなので、教科書の地図を思い出して、③で決まり。教科書の地図のとおり正解か? そうはいかないのです。大宝律令制定の時点で、武蔵国は東山道に属する国とされていたのです。そして、771年に武蔵国は東海道に属す国とされたのです。東山道諸国から東海道諸国に転属したということです。そこで、①が正解となります。
さて、教科書をしっかり暗記した受験生が③を選んだ場合どうなるのか。①も③も正解なのか、①のみ正解なのか。まさか、③が正解で、①は×なんてことはないでしょうが・・・・・ですね。
少なくとも、「教科書」「教科書」と選挙のように繰り返す授業だけは止めておくのが無難です。問題を作る場合も、「教科書」に準拠して作る時には、よくよく注意しなければならないということです。
あるみかんのうえにあるみかん
6月に入って、授業は中世へ。古代史も一通り終わり、第1段階は終了。中世にとりかかる前に、平安時代の後期をしっかりまとめておきましょう。
文化史では国風文化まで。国風文化の文学と言えば、和歌と物語・随筆。古文でお馴染みの作品が目白押しです。そして、その前提となったのが、平仮名(ひらがな)・片仮名(かたかな)の使用です。『源氏物語』が漢文で書かれていたらどんなことになったか? 『枕草子』が万葉仮名で書かれていた? 漢文や万葉仮名の世界では、紫式部も清少納言も出現しなかったでしょう。平仮名の確立、使用によって、ヤマト言葉が自由に表記できるようになった。それが王朝文学だった。現在にまでつながるヤマト言葉の表記法がこの時期に確立したことを説明するために、時おり、利用するのが「あるみかんのうえにあるみかん」という表現です(ある言語学者が紹介していたものです)。
黒板に、「あるみかんのうえにあるみかん」と書きます。そして、この文章を、漢字、カタカナなどを使って読みやすい文章にしてみようと問いかけます。
「あるみかん」の上に「あるみかん」? ある「みかん」のうえにある「みかん」? 「あるみかん」のうえにある「みかん」?
(解答例)1.アルミ缶の上にアルミ缶 2.ある蜜柑の上にある蜜柑
3.アルミ缶の上にある蜜柑 4.ある蜜柑の上にアルミ缶
2、3は実際にはありえないでしょうが、1か3のどちらかはわかりません。
要するに、平仮名、片仮名ばかりの文章は不便なのです。「かな」ばかりの文章だと、「アルミ缶」と「ある蜜柑」の区別がつかない。そこで、多くの場合、漢字と仮名混じりの表記が用いられるわけです。
そこで、次に論述問題の予想問題。
(問題)10世紀から11世紀にかけて、文学史上、後に古典とされる文学作品が多く現れるが、その書き手の多くが女性である。文学史上、古典とされる作品の書き手として、この時期のみ、突出して女性の活躍が目立つのはなぜか。政治的・社会的な背景にも留意して、150字以内で説明しなさい。
