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大学受験日本史講師 石川晶康によるブログ

Archive for 11 月, 2009

東大寺の建築といえば、大仏殿、南大門、それとも法華堂

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文化史の復習は進んでいますか。ただただ暗記という勉強方法は退屈。そこで、教科書の写真版や図録で建築・絵画・彫刻などを確認すること。

さて、東大寺の建築を3点。文化史でどの時代に属すでしょう。

東大寺法華堂

東大寺に現存する天平文化の建築物と言えば法華堂。屋根を見れば、左と右が明らかに違う。向って左が天平期の建築で、「不空羂索観音像」「日光・月光菩薩像」などが納められている正堂。右は、鎌倉時代に付け加えられた礼堂。

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南大門は鎌倉建築の代表。大胆、豪放な「大仏様」。関連する人物は重源(俊乗坊)・陳和卿。両側には金剛力士像。

1180(治承4) 平重衡の南都焼討ちで東大寺の大部分は焼失。

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大仏殿は江戸時代の建築物、元禄文化で出てくる。1567(永禄10)年の松永久秀と三好三人衆との戦闘で再び焼失。
元禄年中に公慶上人の勧進により大仏・大仏殿が再建されました。

江戸三座と歌舞伎座

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銀座の歌舞伎座が立て替えられるそうです。高層ビルのなかに納まるらしい。歌舞伎座の創設は大日本帝国憲法が発布された1889年。福地源一郎(桜痴)らが演劇改良運動の拠点として計画、実現させたものです。現在の建物は1945年の東京大空襲で消失したあと、1950年に竣工、翌年から興行を再開したということですから、約60年ほど前の建築物です。何年か前には交詢社ビルも建て替えられてしまいました。6丁目の交詢社ビルは関東大震災後の1929年(昭和4年)に建てられた、まさに歴史的建造物でした。近代建築のうち、特に大震災後の建物をどこまで保存するべきかは難しい問題でしょうが、老人にとっては子供のころからの馴染みの建物が失われていくのは、やはり寂しいものでしょう。
ところで。江戸時代は風俗統制が厳しく、18世紀以降、江戸で興行を認められた歌舞伎の小屋は、いわゆる江戸三座(中村座・市村座・森田座)のみ。さらに、厳しい風俗統制、奢侈禁止が強行された天保改革期に、この三座は江戸の外れ、浅草の猿若町に移転させられてしまいます。ところが、明治維新で統制が撤廃されると、さっそく、守田勘弥(12世)が守田座を京橋の新富町に移し、新富座と改称し、いわゆる「団菊左」(9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初代市川左団次)らの名優が活躍しはじめるのです。歌舞伎座はこの新富座などに対抗する形で福地らが計画したもので、当初は激しい役者の奪い合いが行われたそうです。ちなみに、新富座の方は関東大震災の後、再建されずそのまま廃絶してしまいました。現在は京橋の税務署になっているということです。
受験生の方は『日本史B実況中継⑤』のP198,『標準問題精講』p181(法政大学の問題)の「精講」などで確認しておいてください。福地源一郎はもちろん、「立憲帝政党」の方でおぼえておければなりません。

珈琲とバタピーと鰻

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一年ぶりに一人で銀座をブラブラ、少し周りもブラブラ。母が好きだった竹葉で「うな丼」を食べ、歌舞伎座のすぐ隣りの、古い古い喫茶店で珈琲を一杯。
歌舞伎座のアノ特異な建物が立て替えられるという話を思い出して足が向いたのですが、出てきた珈琲に生クリームとピーナッツがついてきました。皆無というわけでは無いのですが、コーヒーにバターピーナッツがついてくると無性にうれしい、幸せな気持ちになるのです。
小学校の1年か2年生のころ、始めて母と二人で喫茶店でコーヒーを飲んだことを思い出した。というより、そのときピーナッツがついていたことを思い出したのです。それ以来、小学生が喫茶店に行くはずもなく、やがて大学生になって毎日のように喫茶店に行くようになったころにはピーナッツはついていなかったのです。
その喫茶店は、きっと何十年もコーヒーにバタピーをつけているのでしょう。勝手な想像かもしれませんが。店は、狭く、はっきり言って小奇麗なところなどまったくなし。こった映画で再現しても再現しきれないほどむかしのまま。
要するに、母がいないだけで、五十年前に戻ってしまったのです。母が生きていれば、竹葉を出たら、きっと千疋屋でジュースを飲もうといったに違いないなどと、めずらしく感傷的になったのです。そこで、店をでて、鳩居堂で縮緬で造ったクリスマスの人形を買ってみました。

Written by Ishikawa Akiyasu

11 月 22nd, 2009 at 1:09 am

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プチャーチンとウンコフスキー 

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嘉永6(1853)年、ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航し、幕府に対し通交を求めました。ペリーの浦賀来航の1ヵ月半後のことです。旗艦パルラダ号以下、4隻の艦隊を率いての来航でした。艦長はウンコフスキー。
以前、日露交渉史に関する本を読んでいて、この「ウンコフスキー」という名前に出会った時・・・・・・・・・。ウンコ」という下品な妄想というか連想が頭にこびりついてしまいました。ウンコフスキーの方は入試にはまったく不必要が人名ですが、授業の時、ついついしゃべりたくなる。毎年、勝手に困っています。
ところで。長野市の茶臼山動物園には「プチャーチン」・「ウンコフスキー」という名前のカメがいるそうです。これにも驚きました。「ホルスフィールドリクガメ」というカメだそうです。同園のホームページに写真も載っています。西アジアに生息する小型のリクガメで「ヨツユビリクガメ」や「ロシアリクガメ」の別名もあるそうです。2005年に飼育を始めたそうで、オス1頭、メス2頭の計3頭を飼育しています。そのオスの名が「ウンコフスキー」、メスは「プチャーチン」と「コマちゃん」だそうです。「ロシアリクガメ」からのネーミングなんでしょうか? 「コマちゃん」の由来はわかりませんが、せっかくなら「エカテリーナ」にして欲しかった。しかし、なぜメスを「プチャーチン」としたのでしょうか。その「プチャーチン」が卵を2個産み、そのうち1つがかえったそうです。そして、先月、同園はカメの人工繁殖の成功により日本動物園水族館協会から表彰されたそうです。
これから、数が増えていったら、ラックスマン・レザノフ・ゴロウニンなどと名づけてほしいものです。そういえば、以前、ロシアの文部大臣に「バカチン」という人がいたような記憶があるのですが、これはやめたほうがイイでしょう。
ともあれ、今度、近くまで行く機会があったら茶臼山動物園にいって、ぜひ「プチャーチン」と「ウンコフスキー」に会いたいものです。

Written by Ishikawa Akiyasu

11 月 19th, 2009 at 8:43 pm

『日本史B標準問題精講』についてのお願い

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9月刊行の『日本史B標準問題精講』(旺文社)が重版になります。そこで、初版の誤植を訂正しなければならないのですが、自分の本の誤植というのはなかなか発見しにくいものです。読者の目が頼りです。もし、本書を買ってくださって、誤植を発見されたらぜひ教えてください。ちなみに、横浜校の受講生から1ヶ所教えていただきました。すいませんが、初版を使っている方は次の部分を訂正してください。誤植というより、勘違いによる誤りです。

P69の上から5行目。囲みの部分の「前九年合戦」を「後三年合戦」に訂正してください

(標問15古代史総合・青山学院)の精講の部分です。

Written by Ishikawa Akiyasu

11 月 11th, 2009 at 12:15 pm

パラオに残るゼロ戦

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第1次世界大戦に参戦し、勝利した日本は、赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得しました。サイパンなどの島々が日本の統治領となったのです。そのために南洋庁が設置されたのですが、、やがて、この島々は太平洋戦争の激戦地となりました。パラオも激戦地となりました。この写真は、ペリリュー島のジャングルに墜ちたゼロ戦の残骸です。

受験生の皆さんは、ヴェルサイユ条約の復習を忘れないように。

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Written by Ishikawa Akiyasu

11 月 11th, 2009 at 12:07 am

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