Archive for 1 月, 2010
東京FM「サントリーウエイテイングバーABANTI」
東京FMの番組(「サントリーウエイテイングバーABANTI」)用に、「幕末」についてのコメントを依頼されたので、先日、雑談形式のコメントの収録に行ってきました。その中から、5分ほどが土曜日(30日)午後5時から流れることになっています。インタビュー、バーの常連客の会話という形だそうで、どの部分が流れるかわかりませんが、入試に関わる部分がたぶん流れるでしょう。
「幕末」というと、多くの受験生は目前に迫った入試で「幕末がでたら・・・」
とイヤな気分になってしまうでしょう(もちろん、「幕末大好き」な人もいるでしょうが)。
そんな時は、ともかく年表を取り出して確認しておきましょう。複雑な政治過程をできるだけシンプルに整理しておくこと。放っておくと本当に来週の試験で出ることもありうるわけですか。
先ずは、ペリーの来航。「イヤでゴザンすペリーさん」=1853年から。これを迎えた幕府老中は「阿部正弘」で開国。ハリスに対応したのは「堀田正睦」。ところが、条約勅許に失敗。大老井伊直弼が強硬路線で日米修好通商条約、安政の大獄。桜田門外の変。1860年。この辺りまではだいじょうぶです。条約の内容を確認しておけばOK。ところが、続く安藤信正からゴチャゴチャしてくる。安藤信正らの公武合体運動、和宮降嫁まではいいのですが、1862(文久2)年、安藤が襲われた「坂下門外の変」以後が複雑。
そこで、1862(文久2)年をしっかり確認するのがポイントです。
坂下門外の変⇒島津久光の上洛・寺田屋事件⇒勅使大原重徳を擁して江戸に⇒幕府、文久の改革(将軍後見職・政事総裁職・京都守護職など)⇒帰途、生麦事件 ところが、この年、後半になると孝明天皇の朝廷は将軍に攘夷の決行を迫る。翌年には遂に、文久三年5月10日に攘夷決行ということになり、長州藩がこれを実行するわけですね。
思い出してきましたか? できれば、今すぐその後もチェックしましょう。
生麦事件⇒薩英戦争、長州藩の攘夷決行⇒四国(連合)艦隊下関砲撃
というところが、正に幕末の政治過程の焦点でしょう。
がんばってください。
センター試験日本史B 私大用・速報③
センター試験から私大日本史へ
設問22 ④ 本問はやや難。講武所は1856年に置かれた軍事教練所である。開成所については、幕府の洋学研究機関の流れの中で理解しておくこと。
蛮書和解御用→洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→開成学校→東京大学
1811 1855 1856 1862 1863 1868 1877
天文方に設けられた蛮書和解御用はペリー来航を機に拡大、充実され、文久の改革で洋書調所となり、翌年には開成所となる。
設問23 ② Ⅱは年次(1811年)まではおぼえていないだろう。
Ⅰ:「新井白石」から正徳の治、将軍で言えば→6家宣・7家継
Ⅲ:「漢訳洋書」の「輸入」の緩和→享保改革、将軍で言えば→8吉宗
そこで、将軍で言えば、6代・7代・8代ということになる。だから、
Ⅰ→Ⅲの順序は間違いないと考えられる。そこで、ⅡはⅠの前(Ⅱ→Ⅰ→Ⅲ)かⅢの後か(Ⅰ→Ⅲ→Ⅱ)の2択に絞ってよい。さらに、幕府が蘭学(洋学)に本格的に取り組むのが「正徳の治」以前、すなわち、5代綱吉やそれ以前とは考えにくいので、Ⅰ→Ⅲ→Ⅱ(蛮書和解御用は9代以降で最も新しい)と推定すればよい。
私大受験者は、この際、上記の幕府の洋学研究機関の推移を確認するだけでなく、1811年という年次も記憶しておくとよい。すなわち、1811年はゴロウニン事件が起った年として記憶しているだろうから、あわせて、蛮書和解御用もおぼえておこう。将軍は、もちろん11代徳川家斉。
設問30 ③ うっかりミスで④を選んだという人がいるかもしれない。「第1次大隈内閣」だから③。第二次大隈内閣なら④。
念のため、近衛内閣の「第1次」と「第2次」「第3次」の区別は絶対に間違えてはいけない。もう一度、伊藤・山県・松方・桂・西園寺・山本などについても年表を眺めて確認しておこう。
設問35 ⑤ 高度経済成長は頻出テーマであるが、本問はセンター試験としてはやや難度が高い。
Ⅰ→「東海道新幹線」の開業は、1964年10月1日の「東京オリンピック」の開会の直前10月1日。そして、東京オリンピックが終わって池田勇人内閣は総辞職。佐藤栄作内閣が発足する。
Ⅱ→「列島改造」とくれば田中角栄内閣(1972.7〜1974.12)。
Ⅲ→「テレビ放送」の開始は1953年。私大なら年次もおぼえておきたいところ。サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が独立を回復したのは1952年。その翌年にテレビ放送が開始されたのである。内閣で言えば、もちろん吉田茂内閣。
そこで、Ⅲの年次に自信がなければ、Ⅰ→Ⅱは間違いないから①②⑤の3択とせざるを得ない。もっとも、電気洗濯機・電機冷蔵庫・(白黒)テレビの「三種の神器」が広く一般家庭に普及する「家庭電化ブーム」は1950年代後半以降のことであるから、テレビ放送の開始は50年代前半には始まっていたと考えて、
⑤のⅢ→Ⅰ→Ⅱとしたい。
設問36 「河上肇」が誤り。正しくは柳田国男(折口信夫)。単純な正誤問題だが、大正〜昭和の文化史分野は弱点となりやすいテーマなので注意しておこう。「河上肇」は『貧乏物語』、マルクス主義経済学だから③が×で正解でもよいが、私大入試にも備えてこのあたりをしっかり復習しておくこと。
センター試験日本史B 私大用・速報
センター試験から私大日本史へ その②です。
設問7④ イは「法興寺」か「法隆寺」か、迷った人もいたようである。安易に、聖徳太子(厩戸王)関係だから有名な「法隆寺」としてしまった人もいた。引用されている日本書紀の文章をよく読むと、ここは聖徳太子ではない。「蘇我大臣、亦本願の依に、飛鳥の地に イ を起つ」とあるから、イは法興寺である。
法興寺は飛鳥寺のこと(平城遷都後は元興寺に移る)。現在の奈良県明日香(あすか)村に、蘇我馬子ら蘇我氏によって建立された。鞍作鳥作の釈迦如来像(飛鳥大仏)が現存する(このブログでも紹介した)。もちろん、伽藍配置は飛鳥寺式伽藍配置。
法隆寺は現在の奈良県生駒郡斑鳩町に建立された。同じ奈良県でも「飛鳥」の地からはかなり離れている。もちろん、7世紀初めに聖徳太子が斑鳩宮の西方に建立した寺院(若草伽藍=四天王寺式伽藍配置)。私大受験者は、この際、「法隆寺再建非再建論争」と若草伽藍についてもチェックしておこう。
蘇我馬子 ⇒飛鳥に ⇒法興寺(飛鳥寺)
厩戸王(聖徳太子)⇒斑鳩の里に ⇒法隆寺
設問10 ③ これは、センター試験としては難問。「滝口の武士」は9世紀末、宇多天皇の時に内裏(清涼殿)の警護のために置かれたもの。検非違使は9世紀前半だから「滝口の武士をやめて、新たに検非違使」が誤り。また、検非違使は「平安宮の警護」ではなく、平安京内の警察・司法をその任務とした。「滝口」は、院の北面、西面などと一緒に出題されることもあるので、時期をしっかり確認しておきたい。
設問14 ② 「法然が活躍した」したのは鎌倉初期。九条兼実の求めによって『撰択本願念仏集』を著したことを思い出しておこう。
設問15 ② 東大寺南大門は、たまたま、ブログで東大寺南大門の写真を紹介していた。①室生寺金堂(弘仁・貞観文化 「山の斜面に」がキーワード)③平等院鳳凰堂(国風文化) ④円覚寺舎利殿(禅宗様)。教科書レベルの建築物はしっかりチェックしておくこと。近代の建造物など、どんな有名なものでも写真版利用問題は、見ておかなければ難問になってしまう。
設問21 ④ 甲=尾形光琳「燕子花図屏風」は基本。やっかいなのは、乙=人形浄瑠璃。これが読み取れるかどうか。教科書(山川)に載っている図版(『曽根崎心中』の口上番付)の一部であるから、知っていた人もいるだろうが、そうでなければ、左上の人形に気付かないと答えようがない。人形浄瑠璃とわかってd(竹本義太夫)ということになる。難関私大では、竹本義太夫だけでなく、人形遣いの「辰松八郎兵衛」もおぼえておこう。
2010年センター試験日本史B 私大用・速報
センター試験から私大日本史へ
センター試験日本史Bを受けた人は「お疲れさま」・・・といっている暇はありません。私大の日本史受験が迫っています。「センター試験は終わり」ではなく、せっかく受けたのだから、満点以外の人は、失点を吟味して、私大対策に役立てること。受けっぱなしではモッタイナイ。
そこで、もしも間違えていたら放置できないという問題をとりあげて、設問番号順に、何回かに分けて、コメントを加えていきます。できれば、手元に、センターの問題を用意して下さい。
設問1② Ⅰ・源頼信→Ⅲ・源頼義→Ⅱ・源義朝 で②。ここで迷った人は、
もう一度、清和源氏の系譜と政変・戦乱の順を対応させながら確認しておくことが必要。(a源経基・藤原純友の乱という組み合わせで確認しておくこと)
[清和源氏] 清和天皇—○—a経基—b満仲—c頼信— d頼義—e義家—f義親—g為義—h義朝—i頼朝
[政変・戦乱]a藤原純友の乱→b安和の変→c平忠常の乱→d.e前九年合戦→e後三年合戦→f源義親の乱(出雲の乱)→g.h保元の乱→i平治の乱
ここが、確実に出てくるようにしたら、一歩進めて、関連用語から戦乱の名称が導き出せるようにすること。
「摂津多田荘の経営」「左大臣源高明の排斥の発端」→a満仲
「上総・安房(房総)の国衙を制圧し」→c頼信
「陸奥の安倍氏の反乱を、出羽の豪族清原武則の協力を得て」→d.e父子
といった内容をもう一度チェックしておく。
設問6 「明治時代の思想界」、特に、1180年代後半からの「国家主義」的な思想は頻出のテーマながら、不得意な人が多いところです。
a 1887年 平民主義 →民友社 (徳富蘇峰) → 雑誌・新聞
b 1888年 国粋保存主義→政教社 (三宅雪嶺・志賀重昂) → 雑誌・新聞
c 1889年 国民主義 → (陸羯南) → 新聞
d 1895年 日本主義 → (高山樗牛) → 雑誌
a雑誌『国民之友』新聞『国民新聞』 b雑誌『日本人』 c新聞『日本』
入試ではa・bが頻出。ところが、本年のセンター試験ではc・dだけが取り上げられた! 私大受験者なら、確信をもって X正・Y正、で①。
さらに、一歩進めて。難関私大対策。政治史絡みでは、『国民新聞』がポーツマス条約を容認する立場をとったために「日比谷焼き打ち事件」で暴徒化した民衆の襲撃の対象となったこと。経済史関係からは雑誌『日本人』が「高島炭坑事件」をとりあげていること。テーマ史関係では、史学史で徳富蘇峰の『近世日本国民史』、三宅雪嶺の『同時代史』。文学史がらみなら、蘇峰の弟、徳富蘆花が『国民新聞』に連載した長編小説「不如帰(ほととぎす)」、高山樗牛なら小説『滝口入道』あたりも、チェックしておきたい(モチロン、必須の知識というわけではないので気楽に)。
(つづく)
ペリー・桜田門外の変、そして、コルトM1847
1860年の桜田門外の変。大老井伊直弼が水戸藩浪士らに襲われて落命。今の警視庁の目の前で首相が過激派に襲われたといった構図ですから、幕府の権威はガタ落ちです。ところで、先日、新聞に(朝日新聞1月16日朝刊)「幕末の和製銃」という記事がありました。その記事によれば、この複製の短銃(ピストル)は、ペリーが1854年、再来日した時、すなわち和親条約を締結した際に、将軍家や幕閣に贈った最新式のコルト社製の短銃が早速複製されたものだそうです。写真も載っていましたが、なかなか立派な、大きな拳銃です。
この複製の拳銃は太平洋戦争後、GHQによって接収されてアメリカへ。それを、1987年、日本の古式銃の研究家(沢田平氏)が入手したのだそうです。この立派な複製銃には、水戸の徳川斉昭が好きだったという桜の花の文様が装飾として施されており、そこから、この銃は水戸で作られ、それが「1960年に大老の井伊直弼を水戸藩の脱藩浪士らが暗殺した桜田門外の変で使われた可能性が高い」というのです。短銃の歴史については何もわからないので、この推定が当たっているかどうかはコメントできませんが、ちょっと調べたら、この短銃は6連発の「コルトM1847」、コルトの「ウオーカーモデル」と呼ばれるもので、桜田門外の変で使われたのもこれだったする説があるようです。
浪士たちが井伊直弼を襲撃するとき、短銃を撃って攻撃開始の合図としたことはわかっていますし、「井伊直弼の致命傷は短銃で撃たれた傷だった」とも言います。この複製銃が井伊直弼襲撃の際に使われたものだとすると、因縁めいた話ですね。水戸の徳川斉昭。「桜」の文様。「桜」田門外の変で「桜」つながりというわけです。
縄文時代から続く成人式・入試前日のチェックを忘れずに
今日は成人式。「通過儀礼」の代表的なものですね。「通過儀礼」とは人生の節目節目で行われる儀式です。その中でも、代表的なのが「成人」の仲間入りをする儀式です。縄文時代の「抜歯」はよく入試でも問われる通過儀礼です。健康な歯を無理やり抜いて、その痛みに耐えたら「今日から君も大人だ」というわけです。もっと手の込んだ、門歯をフオークのように加工する「叉状研歯」というのもあります。女性の「お歯黒」も歯に対する加工で、これも成人のしるしと考えられています。
教科書の、平安貴族の生活の部分(山川・詳説日本史Bならp68)にも「元服」と女子の「裳着」がゴジ(太字)でのっています。「元服」は「初冠」などとも言うことは古文で習ったでしょう。『伊勢物語』の最初が「初冠」ですね。「ういこうぶり」という読み方でまず戸惑ってしまう。
受験生なら、これだけでなく、平安貴族の服装、男子の「束帯」・「衣冠」と女性の「女房装束(十二単)」。あるいは、寝殿造とその構造など、受験前日に必ず目を通しておかねばならないところですよ。
ちなみに、若者が、耳たぶに穴をあけたり、中には、牛のように金属の輪を鼻につけたりしているのをみると感動しますね。身体の加工というのはなかなか興味深いテーマなので、ピアスを見ると「抜歯」を連想し、「ああ、通過儀礼なんだ」、「痛みに耐えたことを皆に見せたいんだ」と思います。本人にしてみれば「カッコいい」というだけですが、なぜ身体を加工して「カッコいいか」が興味深いところですね。また、魏志倭人伝(『三国志』魏書)に倭人が入れ墨、あるいは「文身」をしているという部分も思い出しますね。「弥生時代とかわらず入れ墨が好きなんだ」。そういえば、大津事件の被害者だったロシア皇太子ニコライも、日本に着いて、早速、入れ墨をしたという話を何かの本で読んだような気がします。確かめるのも面倒ですが、この身体加工は文化人類学などのテーマとしても気になるところです。


12月なのに正月が来てしまったという悩み 古今和歌集の巻頭の歌
古今和歌集の巻頭の歌を知っていますか
年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ
古今和歌集の歌にみられる理知的・観念的な発想を示すものだと、学生のころならった記憶があります。カレンダー(暦)ではまだ12月なのに、「立春」の日が来てしまった。二十四節気は「大寒」「立冬」などなど、今でも使いますね。現在では季節感をあらわすだけで、実際のカレンダーと比べることはありませんが、陰暦を使っていた平安貴族にとっては、やはり気になったんでしょう。まだ、12月なのに「立春」が来た? ということは、まだ12月だが、昨日までは「去年」ということになってしまうというわけです。
ところで、貴族たちがもっていた暦は「具注暦」と呼ばれるもので、陰陽寮で作成され、天皇から配られるものでした。月日だけでなく、吉凶の判断のための様々な注記が丁寧に記載されています。そして、充分な余白がとってあって、ここに、その日の儀式の様子などを書き込んでいったのです。道長の『御堂関白記』や、その道長の「望月の歌」が書き留められている小野宮右大臣(藤原実資)の『小右記』など、みな具注暦を利用したものです。日付・干支だけでなく、二十四節気などが詳細に書き込まれていたわけです。
貴族たちにとって、さまざまな儀式で、自分に与えられた役割を正確にこなすことはもっとも大事なことでした。子どもや孫に、立派な貴族として家を守っていかせるため、何よりも儀式で恥をかかないために、日記をつけることは大事なことだったのです。入試に必要な情報としては、鎌倉初期の九条兼実の『玉葉』も必須の知識でしょう。守護・地頭の設置の基本史料でおなじみです。『玉葉』は大部の日記で、一二度、通して読んだことはありますが、儀式関係などは、ほとんど意味不明でした。もっとも、腹が立ったり、あきれたりすると、「可弾指」などという表現がよく出てきます。「指」を「弾く」ということはいわゆる「指パッチン」のことでしょう。兼実も、きっと、「チェッ」といった場面で指を鳴らしたのでしょう。
オランダ正月でオメデトウ
あけまして オメデトウございます
さて、正月といえば、受験生にとって「最後の追い込み」の時期。日本史受験者なら、「正月」とくると、大槻玄沢=芝蘭堂から「オランダ(阿蘭陀)正月」を思い出してしまうところがつらいところ。気になるテーマは放置しないでチェックしておきましょう。
寛政6年閏11月11日は西暦でいうと1795年1月1日でした。大槻玄沢は江戸で開いていた家塾、芝蘭堂で新年の祝宴を開き,これを阿蘭陀正月(新元会)と呼んだそうです。もちろん、出島のオランダ商館では西暦による新年会が開かれており、「阿蘭陀正月」と呼ばれていたのですが、玄沢がこれを江戸で開いたのが西暦1795年。太陰太陽暦だった日本はまだ閏11月でした。「閏月」があるということは、この年は13ヶ月だったわけですね。
太陽暦(グレゴリオ暦)を日本が採用するのは明治5年。明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日としたのです。そこで、「徴兵告諭」が明治5年11月28日に発せられ、約2週間後には徴兵令が公布されるのです。前年の11月が「告諭」で、徴兵令が公布された時には年がかわって明治6(1873)年1月10日、ということになるわけです。年号問題では注意しなければならないところです。
以後、日本も西欧のキリスト教国と同じ太陽暦を「西暦」として使うわけですが、現在使われている太陽暦は「グレゴリウス暦」と呼ばれるものです。これがローマ教皇によって制定されたのは1582年です。そう、日本なら天正10(1582)年。本能寺の変、山崎の合戦という大転換の年。そして、天正遣欧使節の出発の年でもあります。ということは、この天正遣欧使節が会ったローマ教皇グレゴリウス13世が制定したのが、現在使っている西暦、すなわちグレゴリウス暦なんです。
