Archive for 2 月, 2010
おつかれさまでした 今年の東大2次日本史は圧倒的高得点が可能
東大2次日本史の試験も終わりました。午後からの、河合塾としての解答例作成のための会議も終わりました。
第3問の秋田藩・院内銀山に関する問題は、第2回オープンで出題したばかりなので、予備校的なパターンで「的中」「バンザイ」ということになるのでしょうが、あまり、そんなことをアピールすると来年が怖いので、ひそかに「にやり」という程度にしておきます。それにしても、「領内の上方」という表現は言い得て妙。実は、このフレーズが気に入って、会議の結果、採用された問題でした。もっとも、第1問の前提となる「受領」に関する問題、「代銭納」にともなう流通と商品の変容も河合塾の去年の夏の講習会で採用した予想問題でしっかり扱っていますので、復習していれば高得点が可能な問題でした。その意味で、今年は当たり年ということになります。しっかり、講習会や東大オープンを活かしてもらえればうれしいのですが。
東大に限らず、早慶大などの難関私大についても同様です。具体的に、講義や問題演習で特に強調したテーマが、指摘した通りのパターンで出題されていると「ホッ」とします。もちろん、「しまった」と後悔する出題もたくさんあるのですが。
ともあれ、結果がどうなるかは相対的なものです。とりあえず、一息入れましょう。お疲れさまでした。
国母について
國母君というスノボー選手の「服装がだらしない」、「自由でいいじゃないか」といった話題が盛り上がっているようです。
服装が自己を表現するものだとすれば、憲法の保証する「表現の自由」を尊重して、気に入らなくても認めるしかないのか?
「日本選手団」の「制服」を、「制服らしく着用するべきだ」ということになるのか。ちょうど、今、國母選手らの出る、ハーフパイプ競技の最中です。「国母」と表記するのは失礼なので、「國母」と表記しておきます。勝手に人の名前を別の字、略字にするのは失礼でしょうから。
ところで、「こくぼ」と聞くと、日本史的には「こくぼ」「こくも」から天皇の生母に対する呼び名を想起します。一般に、「国母」と言えば天皇の生母の称なのです。辞書によれば、879(元慶3)年、淳和太皇太后正子内親王を「国母」と呼んだのがその最初。「天子」を産んだ母、国の母親だということです。一条天皇生母の藤原詮子以後は、「国母」は出家後、女院号を受けるようになります。そのような存在である「国母」という言葉と、今回の問題が何やら皮肉なものに見えてくるのですが。ちなみに、幕末史で、薩摩藩の「国父」といえば島津久光でしたね。この場合は、藩主の父という意味ですが。
感動をありがとう 悲願の金メダル 一億総懺悔
始まってしまいましたねえ。冬期オリンピック。楽しみな種目もあり、「いよいよ」という一方で、少々、憂鬱な日々がやってきました。きっと、「感動」の嵐がやってくる。メダル何個、メダル何個と、守銭奴のようなコメントが繰り返されるに違いない。
テレビは「感動」「感動」。もちろん、感動的なシーンはあるでしょう。しかし、感動するかしないかは、個人個人の感覚の問題でしょう。「国民」の総意にもとづいて、全員が「感動」するという状態は何やら気持ちが悪い。
ところで、戦後史の復習はしっかりやってますか。東久邇内閣と言えば? はい、「一億総懺悔」でしたね。国民一人残らず「懺悔」しようというのですからスゴイ。このパターンでいくと、ともかくオリンピックは「一億総感動」。しかも、「感動をありがとう」という表現が一番ひっかかるんです。
国民を代表して、テレビ局が、ある選手やチームにたいして「ありがとう」と感謝しているんでしょうか。たしかに、本当に感動的な場面を選んで見せてくれることもあるわけですが、それは人それぞれ。この「場面」はきっと多くの視聴者も「感動」するだろうと予測するのは自由です。しかし、皆が、一緒に「感動する」と決めつけて、「ありがとう」と視聴者を代表して感謝しているんでしょうか。「一億総感動」ということなんでしょうか。
コメンテーターが声を張り上げて、「感動」して身震いするのは自由です。ほんとにそうだと思うこともあれば、「台本どうりですね」と言うしかない場合だってあります。それにしても、「感動をありがとう」はイヤですね。
「感動」は誰かからもらうもの、贈り物ではありません。「このシーン、この金メダル」は「感動」するのが当然だから、みんなで「ありがとう」という決めつけほしくない。
外国の選手にだって「感動」することがあります。いやいや、「敗者」に感動することもあります。でも、それを他人に押し付けようなんて思うわけがないでしょう。国に金メダルをもたらした人には「感謝」するべきだ。「感動」しないのはオカシイ。すなおに「ありがとう」と言えということになるんじゃないでしょうか。
「国民」の目線で、一丸となって「感動」をありがたく頂くのだけはやめておきましょう。
・・・・・などと言っていたら、「もう始まったの」という人もいて、なんだ、テレビで開会式見てない人もイッパイいるんだということに気付きました。そして、ホッとしました。
建国記念の日・建国記念日・紀元節
今日は「建国記念の日」。かつての祝日、「紀元節」が戦後、復活したものです。明治政府は神武天皇即位の日を2月11日とし、大日本帝国憲法の発布もこの日に行われた。もっとも、明治政府は、当初1月29日を即位の日としたのですが、1873年に、2月11日に変更したものです。もちろん、どちらにしても、中国から伝わった「辛酉革命」という考えかたを利用して、神武天皇の即位を紀元前660年とし、さらにこれを太陽暦に換算して、1月29日、さらに2月11日としたわけです。紀元前7世紀ですから、縄文時代。弥生時代をもっと遡らせるとしてもその前期です。国家や天皇どころか「大王」も誕生していない時期であることは間違いありませんから、「神話」上の話です。
何を根拠に「建国」の日とするかは、国によってそれぞれですから、神話のある国は、そこに根拠を求めてもいいわけですが、それを、日付まで決めて、歴史的事実のように扱うのは、そもそも無理でしょう。
戦後、「紀元節」は祝日から除外されますが、これを復活させようという動きは早くから現れてきます。自民党は度々復活のための法案を提出しますが、革新勢力の反対にあって、何度も廃案とされました。そして、最後に妥協的な案として「建国記念の日」が成立しました。「建国記念日」では直接、2月11日の「紀元節」そのものの復活であることが露になるので、単に、日本の建国を祝うという意味を込めて、「建国記念の日」と「の」を入れたそうです。議会における与野党対決の妥協を象徴する処理だったのです。そして、その後、審議会を設置し、その「建国記念の日」を「2月11日」とする答申にもとづいて、事実上、「紀元節」が復活したのです。「の」を入れるか入れないかの違いをちょっと思い出したのでメモしておきました。
日本語は難しい? 政治家は小賢しい? 国民は休日が増えれば嬉しい・・・といったところでしょうか。
プリウス・小沢一郎・朝青龍・坂本竜馬・源義経
トヨタのプリウス、民主党の小沢一郎幹事長、横綱(だった)朝青龍。ブレーキがおかしい、政治資金が不透明、品格がないうえに暴力を振るった。「国民」の前で、いさぎよく謝らない。「涙を流して退場しろ」と、マスコミは「国民」を代表して、「国民の目線」で大合唱。「強者」は叩け。強者は「悪」といった構図でしょう。朝青龍は引退表明で決着。ところが小沢幹事長は辞めないから、ますます「悪役」。トヨタは微妙。アメリカ、あるいはアメリカ自動車産業にとっての「強者」、悪者のトヨタは、ニッポンの誇る大企業ということなのでマスコミ的には扱いが微妙でしょう。特に、民放はCMがあるので微妙。「国技」を放送するNHKも、相撲人気そのものが減退するのは確実なので、実は不安。小沢問題は政治権力に直結している問題なので、扱いは複雑で深刻です。
ところで。一連の報道に接すると、個々の問題はさておき、日本の「伝統的」な、善悪、強者・弱者という二元論が際立ってきます。ちょっと人気下降気味ですが、源義経はニッポンのヒーローの典型。最近だと坂本竜馬でしょう。某政党の中心人物が「みんな坂本竜馬になろう」と呼びかけてました。気持ちは伝わりますが、国民が全員「坂本竜馬」はどう考えても???勝手に、「坂本龍馬は国民的なヒーロー」だというわけです。「まさか坂本竜馬を尊敬しない国民なんていないだろう」という前提が???。義経と静御前、坂本竜馬は新婚旅行と女性にもてもて。ところが、若くして悲劇の死。これでヒーローが完成する。そして「伝説の〜」となり、ついにはそれが「国民」の常識のように扱われる。江戸時代なら、赤穂浪士(善)対吉良(悪)。吉良は首をはねられ、大石たちは切腹。「強者」は殺され、「善なる弱者」は切腹。いわゆる「判官びいき」です。もちろん、そのような「物語」がいけないといってるわけではありません。「物語」の世界が現実の問題に登場してしまうところが問題だと思うのです。
ヒーローの前提として、「悪役」が登場しなければ話にならない。この場合、「悪」とは「強い」と同義です。悪たる「強者」は滅亡してもらうことになってます。「おごれるものはひさしからず」というのがポイントです。『平家物語』の世界です。ところが、「強者」は、それこそ「強者」ですから、そんなにうまい具合に「滅亡」してくれない。そこで、「国民」はイラつく・・・・・。それが報道の発想の前提となっている感じがしてならないのです。
現代の強者。トヨタ・小沢一郎・朝青龍は、ともかく滅ぼさなければならない。しかし、ちょうどいい「善玉」がいない。そこで、善玉役に新聞・テレビが登場する。新聞・テレビは、弱者として「国民」という言葉を持出したという構図に見えてくるんです。「国民」に対する「説明責任」を果たせ。「坂本竜馬になろう」。それは、一種のスローガンであって、実質的な意味は不明としか言いようがないのですが、「国民に説明しろ」。要するに「自白しろ」「失脚してしまえ」ということでしょう。そう主張することは自由ですが、イヤな感じがするのは、ここで「国民」が登場することです。マスコミに頻繁に登場する「国民」や「国民の常識」の「国民」とは、誰を指しているのか。圧倒的な数の日本国民というのでしょうか。たとえそうだとしても、少なくとも、自分がその大多数の中にカウントされるおぼえはない。テレビのコメンテーターと称する人びとの(もちろん全てというわけではありませんが)「国民」という言葉の中にカウントされることだけは勘弁してもらいたいものです。「アンタに「国民」と呼ばれるおぼえはない。「坂本竜馬になんかになりたくない」。様々な意見があることが「民主主義」の大前提でしょう。検察が捜査対象にしたら「悪」、相撲は日本の「国技」だから「品格」が必要だと主張することはもちろん自由ですが、それは「国民」の意見ではない。犯罪、違法行為は裁判で有罪が確定するまでは推定無罪。相撲は格闘技であり儀式ではない、と考えるのも自由です。
旧石器時代の人骨発見・沖縄県石垣市から
沖縄県の石垣市の「白保竿根田原洞穴遺跡」から「2万年前の旧石器人骨」が発見されたというニュースが流れました。以前、このブログで、高校日本史の教科書に紹介されている「炭素14年代」測定法と「年輪年代法」、あるいは、「AMS法」による補正について触れたことがありました。現在、旧石器時代の人骨としては、沖縄本島の「港川人」と「山下町洞人」、静岡県の「浜北人」が教科書にのっていますが、今回の人骨は、人骨そのものの年代測定に成功した結果として注目されるところです。かつては、牛川人、三ヶ日人など、多くの旧石器時代の人骨が紹介されていましたが、その多くが再検討の結果、「人骨」とは認められないものとされて教科書から消えていきました。でも今回は、確実な旧石器時代の人骨の例が加わったということになります。これが、来年以降の教科書に反映されるかどうかはわかりませんが、日本史の学習をこれから始めるという人は最初のところですから留意しておきましょう。ただし、今回も用いられた「AMS法」などの意味は理系の先生に質問して下さい。
